説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2008年1月 ***

総会礼拝

2008年1月27日 松岡俊一郎(牧師)

 私たち日本人は、自分の感情や考えを表現することが不得手です。外国の方のように身振り手振りで話すこともなく、喜怒哀楽などの感情を顔に出すこともあまりありません。自己主張もそんなに得意ではないかもしれません。このように良く言えばつつましく謙虚な気質をもった私たちは、神さまの救いに対する反応も静かです。本当ならば、自分の生き方に関わる変化ですから、もっと大騒ぎをしていいはずなのに、静かに受け止めるのです。私はそれを悪いことだとは思っていません。でも、残念なことだとは思っています。なかなか人に伝わらないからです。
 聖書はイエス様との出会いによって救いを体験した人々の反応を報告してくれています。福音書の日課である弟子たちの召命の出来事もそうです。弟子たちがすぐに網を捨てて従ったところをみると、彼らの心に大きな衝撃と変化が生じ、大きな決意をもって新しい一歩を踏み出したことがわかります。ヨハネ福音書4章のサマリアの女はイエス様を救い主と信じ、それまで人目をはばかるような生活をしていたのに、堂々と街の人々に報告しているのです。ルカ19章の徴税人ザアカイのイエス様との出会いでは、不正な働きをあらため、正しい人に変えられました。イエス様自身もルカ福音書15章で、迷子になった一匹の羊を見つけた羊飼いの喜び、失くした銀貨を見つけた女の喜び、放蕩息子が帰ってきたときの父親の喜ぶ様を通して神様の喜びの大きさを語っておられます。さらにイエスさまの復活の時、み使いによって主の復活を知らされた女たちは、走って他の弟子たちのところに伝えているのです。救い主との出会いには、変化があります。そして行動があるのです。衝撃を自分の中にとどめておくことができない、誰かに伝えたい、その突き動かされるような思い、これが伝道です。
 今年の大岡山教会の宣教の主題は「キリストの喜びが溢れる教会」です。教会が伝道することは当然の使命ですが、そのためには教会がキリストの喜びに満たされる必要があります。しかし満たされるだけでは自己満足にとどまってしまいます。その喜びは溢れ出て人々に伝わる必要があるのです。少しでも信じているならば、少しでも喜びを感じているならば、それはあふれる喜びへと変えられる可能性に満ちています。そこに教会の交わりがあるからです。教会の交わりはお互いの痛みや苦しみを負いあい、喜びをさらに何倍もの喜びに変えることができるのです。一人でできないことが、祈りと交わりによって出来るようになるのです。主題聖句は、使徒言行録2章41節、42節です。ご存じのようにペトロは、弟子たちの中でも一番弟子と目された人でした。しかし、イエス様との旅の途中では度々イエス様に叱られています。また、イエス様の十字架の前では、自分が捕らえられることを恐れてイエス様との関係を否定するという大変な裏切り、失態を犯していました。しかし、復活の主はそのようなペトロを受け止め、ゆるし、主の大切な人々の牧者として立てられたのです。聖霊を受けたペトロは変わりました。それまでの臆病なペトロではなく、主の救いを人々に堂々と伝えられる人に変えられたのです。この変化は人々の心を動かしました。礼拝を中心とした教会の誕生です。この出来事とみことばに導かれながら、私たちの教会も新しい歩みを始めたいと思うのです。雄弁である必要はありません。救いの体験をそれぞれの言葉で証しし、喜びを素直に表現し、人々にキリストとの出会いを伝えたいと思うのです。誰にでも恥ずかしさや臆する心があります。しかし、ペトロが聖霊の力をいただいて初めて伝道出来たように、私たちも聖霊の助けをいただきながら、証しする教会となりたいと思います。

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2008年1月13日 松岡俊一郎(牧師)

 バプテスマのヨハネは、荒れ野で人々に悔い改めを説き、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていました。彼の洗礼は「悔い改めの洗礼」と呼ばれています。洗礼はユダヤ教でも行われていました。ただその際の洗礼は清めの沐浴でした。
 イエス様はヨハネに洗礼を受けることを望まれます。しかしヨハネは躊躇います。ところが、イエス様は「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われ、洗礼を受けられたのです。
 「正しいこと」とはいったい何なのでしょうか。そもそも罪のないイエス様が悔い改めの洗礼を受けられる必要はあったのでしょうか。「正しいこと」とは、神様の御心、神様の意思を言っていると思われます。神様の御心とは、人の自己中心的な、神様を神様と思わず、自分を神としてしまう罪の赦しのために、キリストがその罪を引き受け、十字架にかかることです。キリストによる救いの実現です。イエス様は、ヨハネの「悔い改めの洗礼」を受ける必要はありませんでした。しかし、あえてその洗礼を受けることによって、人の救いのために、罪人としての人生をその身に負って生きることを始められるのです。イエス様が受けられる洗礼は、神様の救いの意思の実現の第一歩としての洗礼だったのです。
 旧約の日課は、イザヤ書の「苦難の僕」です。1節には、神様がその僕を選んだことが言われています。2節からはその僕がどんな姿で救いを実現するかを語っています。
 救い主は、威風堂々と現れるのではありません。弱弱しく、頼りない、いつ道を踏み外すかわからないような私たちと同じ姿で、この世に来られたのです。しかし、神様の愛の意思を持った救い主は、決してわたしたちを見捨てることなく、支え、希望を与え、救いにいたらせてくださるのです。
 さらにもうひとつの言葉に注目してみましょう。「我々にふさわしい」と言われる時の「我々」とは誰のことでしょうか。イエス様とヨハネのことでしょうか。二人の会話ですからそうとも読めます。しかし私はその内容から、ヨハネに洗礼を受けに来た人々も含めた「我々」と読みたいと思います。なぜならば、イエス様が言われる「正しいこと」も「ふさわしい」ことも、二人だけにふさわしいのではなく、悔い改め、神様の救いを求めるすべての人に関係することだからです。このように考えると、イエス様の洗礼は、イエス様個人のことではなく、私たちのための出来事であることが確かに言えるのです。
 私たちの洗礼は、このイエス様の洗礼と結びついています。それは洗礼が、罪の赦しを求める神様の意思の表れだからです。私たちもこの洗礼によって、神様の赦しを受けいれます。もちろんそこにはイエス様の十字架による救いがあるのですが、洗礼はその救いのしるしなのです。その意味で、洗礼は私たちの意志による行為以前に、神様の意思による出来事といえるのです。だからこそ私たちは何のためらいも迷いもなく、赤ちゃんに洗礼を授けることが出来るのです。
 洗礼は、別の言い方をするならば、洗礼を受けた者同士は、お互いが罪人であることを認め合えるということです。そしてそれはお互いが神様の愛と赦しを必要とする存在であることを認め合えるということでもあります。洗礼を受けるということは、お互いの罪を認め、お互いに注がれている神様の愛を知る絆でもあります。

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2008年1月6日 松岡俊一郎(牧師)

 今日は顕現日です。救い主の誕生が東方の博士たちに知らされた日です。彼らは占星術の学者たちでした。占星術の学者であったといっても、国の行く末を王様に進言するほどの地位を持った人たちです。彼らはひときわ大きな星を発見し、それを偉大な王の誕生と悟り、星を頼りにユダヤの地まで旅したのでした。彼らは新しい王の誕生ということで、当然のごとくヘロデ王の宮殿を訪ねます。ところがヘロデ王にとって、新しい王の誕生のニュースは寝耳に水でした。それだけではなく、新しい王の誕生はイコール自分の地位を危うくする存在ですから、彼はすぐにそれに対応する必要がありました。そこで場所を特定するように祭司長や律法学者たちに調べさせるのです。彼らはミカ書の中からベツレヘムを見出します。そこでヘロデ王は、博士たちだけをそこに送り、救い主がいたら知らせてくれ拝みに行くからと頼むのです。勿論その真意は新しい王となる者の抹殺でした。博士たちは、救い主に会いたい一心でベツレヘムを訪ねます。すると再び星が彼らを導き、家畜小屋の上で止まったのです。そこには救い主が飼い葉おけに寝かせてありました。そこで彼らは礼拝し、黄金、乳香、没薬をささげたのです。この後、目的を果たした博士たちは、ヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けて、別の道を通って、彼らの国に帰っていくのです。
 なぜ救い主の誕生が、外国人にまず伝えられたのでしょうか。どうしてユダヤ人たちではなかったのでしょうか。一般のユダヤ人たちにもメシア待望の機運はありました。ローマの支配と傀儡政権の中で、ユダヤ人たちの生活は苦しく、自尊心や誇りを傷つけられていました。彼らが待っていたメシアは、自分たちの生活を変えてくれる革命的な力を持った人物でした。自分たちの不満を受け止め、ローマに力強く立ち向かう人物を求めていたのです。だから彼らは飼い葉おけの中の赤ちゃんに救い主としての姿を見ることはできなかったのです。さらに、ヘロデ王をはじめとする宮殿の人々、あるいは王の取り巻きは、新しい王の誕生などは、初めから望んでいませんでした。彼らにとって今の地位を守ること、今の利権を確保することが至上命題だったのです。
 それでは彼らと博士たちの間とでは何が違ったのでしょうか。それは、博士たちが救い主の誕生を待っていたこと、そしてそれを絶えず星に聞いていたということです。星は彼らにとって神様の啓示です。彼らはそこからすべてを読み取っていたのです。人の目は関心のあるところに向かい、気づきは関心を持つ人に訪れます。心を向けるということです。出会いは求めている人のところに起こるのです。
 本来、神様の救いはユダヤ人に限定されるものではありません。ユダヤ人はそれをいち早く受取るチャンスをもっていながら、それをしなかったのです。神様の救いは、グローバルなものです。しかし、どんなにグローバルなものであっても、外国人にも与えられているといっても、それを求めなければそれはないに等しいのです。ユダヤ人に優先して外国人に救い主の到来が知らされたというよりは、救い主を待ち望んでいた人々にいち早くその知らせが与えられたのです。
 私たちには星の代わりにみ言葉が与えられています。み言葉が救い主の誕生を知らせ、誕生だけでなく十字架の死と復活によってその救いが完成したことを知らせています。このみ言葉に聞いていくこと、それが私たちが救い主と出会う方法です。目の前に聖書があっても、それに注意を払わなければ、それはただの分厚い本でしかありません。しかしそれを手がかりに救いを求めていくならば、み言葉は私たちを救い主のところに連れて行ってくれるのです。

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