説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2007年12月 ***

2007年12月30日 松岡俊一郎(牧師)

 どんなにクリスマスが一般の中でポピュラーになっても、ここにほとんど取り上げられることのないエピソードがあります。時間的には来週の顕現日の出来事と前後します。東方の博士たちは、飼い葉桶に寝かせてある救い主と出会った後、ヘロデのところに帰るなとの夢によるお告げを受け、そのまま自分たちの国に帰って行きます。
 一方、博士たちが帰ってこないことに気づいたヘロデは大いに怒り、ベツレヘム一帯の二歳以下の男の子を一人残らず殺してしまうのです。当時、このようなことは当然の事のように行われていました。このヘロデの行動を予期しておられた神様は、ヨセフを通じてその逃れの手段を講じられ、聖家族のエジプト避難となるのです。
 ここで不思議に思うことは、神様はなぜ別の方法でこのヘロデの企みを阻止されなかったかのでしょうか。もしほかの手段を講じておられれば、幼児虐殺ということも起きなかったとも考えられるのです。ところが、悪の企みをそのままにして、避難という形で聖家族を救い出されるのです。
 神様は罪人が罪を犯すことをやめさせられません。もし神様が罪を犯すことをやめさせ、善いことだけをするようにされるのであれば、世界の平和はもっと早くに実現しているはずとは誰しもが思うことです。しかし、罪を犯すことをとめるのではなく、罪の悔い改めを求め、悔い改める者を赦されるのです。罪を犯す者には犯させ、悔い改める者を受け入れられる、そこに神様の人への信頼と自由があります。キリストの救いを知り、自分の深い罪に気づき、心から悔い改めることによって神様への深い信頼と愛が生まれ、強い結びつきが実現するからです。しかし、悲しいかな、人は多くの場合、それをせず罪へと走るのです。殺人や盗みなどの犯罪を犯すことはなくても、私たちは心を神様に向けることをせず、自分自身の罪と欲望に押し流されるのです。
 ヘロデとヨセフの姿は対照的です。自分自身とその欲望に忠実で人の命さえも顧みない人の姿。ヨセフにはただ神様の導きに従い、幼子とその母を守ることに徹する姿です。私たちにはこの両方の可能性があります。神様の御心に目を向けず、自分の思いに固執し、神様から遠ざかっていく私。自分の弱さ、小ささを知り、神様の力を信頼し、神様から与えられた使命に生きる私。私たちはどちらを選び取るでしょう。当然、後者でしょう。ヨセフの生き方です。神様はヨセフを信頼し、ヨセフを守り、ヨセフに救い主を守る使命を託されるのです。それも悪と立ち向かう仕方ではなく、逃げるという一見よわよわしい方法でそれを実現されるのです。神様に従うことは、勇ましいことや晴れがましいことでもありません。ただ神様に信頼し、その託された使命に誠実であるというだけです。もちろんそれは私たち自身の力で出来ることではありません。ヨセフが主の天使によって夢の中で告げられ導かれたように、私たちもみ言葉を通して、さらに聖霊の力と導きによってそれをするのです。
 私たちにも神様から与えられている使命があります。それは救い主イエス・キリストによってもたらされた福音を忠実に守り伝えるということです。そしてそれは礼拝を守り続けるということで全うされます。礼拝を守ることさえ大変苦労されている教会が多くある中で、私たちはそれを実行できました。礼拝を中心に生活できたことは、私たちに与えられた最大の祝福だと思うのです。このような地道な礼拝生活、信仰生活が私たちを育て、やがては多くの人々への証となっていきます。この一年を主に感謝し、新しい年を迎えたいと思います。

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イブ礼拝説教

2007年12月24日 松岡俊一郎(牧師)

 神様の独り子イエス・キリストの誕生は、ユダヤの荒野で羊の番をしていた羊飼いたちに告げられました。羊飼いは、私たちにはあまりなじみのない仕事です。動物を飼うということ自体簡単なことではありません。なにしろ相手が生き物ですから休みはありません。それも聖書の舞台は、昼は暑く夜は寒いパレスチナの厳しい気候です。羊を狙う猛獣との格闘もありました。まさにきつい、汚い、危険の3Kでした。羊飼いは尊敬される仕事ではありませんでした。当時の社会の中心的なところにいたのではなく、周辺にいたのです。
 しかし救い主の誕生は、なぜか彼らに一番に知らされたのです。そして天使が告げることには、その救い主は家畜小屋の飼い葉桶に寝かせてあると言い、さらに、それこそが救い主であることのしるしだというのです。クリスマス物語を知っている私たちには、これらは美しい夢のある話として受け取られるのですが、しかし客観的に見るならば、大変不思議なことだと思うのです。なにしろ救い主の両親は、田舎の青年ヨセフと十代半ばだと推測されるマリアであり、彼らは人口調査のためにユダヤの寒村ベツレヘムに旅をしていました。しかし彼らには泊まるところがなく、よりによって家畜小屋の飼い葉桶に寝かされているというのですから、それは驚きです。それは別の言い方をするならば、人の社会の中に居場所がなかったということもできます。
 聖書は救い主をとことん小さな存在として描いているのです。なぜそのような境遇の中にいる赤ちゃんが、救い主のしるしなのでしょうか。
 私たちはこの一年どのように過ごしてきたでしょうか。いろいろな苦労はあったにしろ、そこそこ普通の生活に過ごすことができました。しかしそれでは、身も心もいつも社会の中心にいて、平穏に暮らしているかというとそうではありません。病気をされた方もいらっしゃいます。ご家族の介護に尽くされた方、大切な家族を天国にお送りした方もいらっしゃいます。厳しい経済状況ですから、仕事を失った方もおられるかもしれません。お勤めの方も競争社会に遅れをとらないようにするために、毎日緊張して過ごしておられるのではないでしょうか。そんな中で自分を見失いそうになってはいないでしょうか。実際に、病気や怪我などで、少しでも休もうものなら、とたんに遅れをとったとあせったり挫折感を感じたりしてはいないでしょうか。
 救い主の誕生が羊飼いに伝えられたというのは、それはとりもなおさず、あなたに伝えられたことなのです。そしてその救い主は、社会の中心にいる私ではなく、周辺でうずくまっている私、孤独の中にいる私、恐れている私、あせっておろおろしている私、悩んでふさぎこんでいる私、疲れている私、絶望的になっている私、そういう私を受け入れるために飼い葉桶に寝かされたのです。
 救い主が私たちを受け入れるということは、私たちのありのままを受け入れてくださるということです。そのままでいいと言ってくださるのです。私たちはなかなか自分自身にOKを出すことができません。もっと、もっとと自分に限りなく要求し続けます。しかし神様は私たちにすでにOKを出してくださっているのです。
 私たちが本当に自分を取り戻せるときは、本当に平安を感じることができるときは、私たちを包み込んでくださる大きなみ手によって今の私をそのまま受け止めてもらえる時です。クリスマスは、その時なのです。

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2007年12月23日 松岡俊一郎(牧師)

 聖書の出来事を理解するためには、そこに登場する人物の身になって考えてみるという方法が大変役に立ちます。先週の日曜日の説教では、竹内茂子姉妹がヨセフの立場に目を留めてお話くださいました。今日は母マリアとエリザベトの二人の女性に注目してみたいと思います。
 親しい間柄でも、お互いの気持ちを理解しあうことは容易ではありません。しかし、共通あるいは似た境遇や体験があればその理解や共感の度合いはぐっと近くなります。マリアもエリザベトも赤ちゃんを身ごもりました。エリザベトは高齢で、マリアは未婚という違いはありましたが、妊婦という点で同じです。それ以上に、二人は自覚のないままに聖霊によって宿したという点で、ほかの妊婦とは大きく違っていました。赤ちゃんが生まれるということは広い意味で神様の働きですから、すべてに聖霊が関わっているといえなくはありません。しかし二人は普通ではありえない仕方で赤ちゃんを宿していますから、そのことを誰にも相談できなかったに違いありません。エリザベトは高齢であるがゆえに人からいぶかしく思われ笑いものになる不安がありましたし、マリアは未婚であったがゆえに姦淫の罪を犯した罪人として裁かれる恐れがあったのです。女性の社会的立場が低かった時代です。何を弁解しようとも彼女たちには勝ち目はなかったのです。二人を脅かすのは外からの目だけではありません。彼女たちの心の葛藤も尋常なものでなかったことは想像に難くありません。ましてやマリアは十代半ばだったといわれています。彼女が天使のみ告げを聞いてすぐに同じ境遇の親戚エリザベトを訪ねたのもうなずけることでした。マリアはエリザベトの存在にどれだけ勇気付けられたでしょうか。そしてそこに三ヶ月もの間滞在しました。
 思い返せば、天使が最初にマリアに現れて「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と言ったとき、「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込みました」。マリアの幼くも平穏な心に突然の衝撃が入り込みます。マリアのクリスマスを待つ日々は、決して穏やかなものではなかったのです。
 私は皆さんに再三、このアドベントの季節に心静かに神様の御子のお誕生の心備えをしましょうと申し上げました。しかし、私は皆さんがこの季節、決して穏やかに過ごせる状況でないことを知っております。お勤めの方は年末ということで、第三四半期と会社によっては年度末の決算期です。主婦の方も年末のお掃除やお正月の準備があります。学生さんたちも期末テストや受験があります。そしてかく言う牧師も10回ほどのクリスマス礼拝のお話やその他の準備、来年の総会のことが気になって、決して心穏やかにすごすことはできないのです。当然それらに加えて、健康のこと、家族のこと、仕事のこと、人間関係のことなど私たちを思い煩わせる事柄は、数え切れないほど私たちを襲います。私たちの精神状態はクリスマスの美しいイルミネーションやきれいな音楽とはまったく対極にあるのです。その意味で、わたしたちもそしてマリアも決して穏やかな気持ちで御子のお誕生を待ってはいなかったのです。
 今日の福音書の日課は、マグニフィカートと呼ばれ、マリア自身を賛美したアベ・マリアと区別され、マリアが神様を賛美した歌です。
 その内容は「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょう。力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから。」というものです。
 その歌の中には、不平や不安はありません。旧約の詩篇などには嘆きの詩篇もあるのですから、マリアも不安や不満を口にしてもよかったはずです。しかしマリアは、心からの感謝と賛美を歌っているのです。ここに私たちとの、いや私との違いがあります。愚痴とボヤキ、弱音ばかりの私と違って、マリアは心からの賛美を歌うのです。なぜでしょうか。
 聖書の時代、女性の地位が低かったと申しました。福音書の中でも人数を言うときに男性の数だけを載せているように、女性は数に数えられませんでした。中でも未婚の女性はさらに低い立場です。それもマリアはガリラヤのナザレというあまり名も知られていない町の娘です。社会的な地位はなかったに等しかったと思います。その娘を選び、神様は御子の母とされようされるのです。この衝撃的なことにマリアが耐えられたこと自体も不思議なことです。しかし、耐えるだけでなく、彼女はそこに神様の深いあわれみと救いを見出し、これから起こるであろうさまざまな困難に恐れを持ちながらも、神様の憐れみと救いに目を留め、賛美するのです。これほどまでに神様に向かう心、信仰には耐えられないことは何もありません。
 私たちは自分の身の上に起こる出来事にばかり目をむけ、そこに不安を持ちます。しかし、マリアは出来事ではなく、神様が自分に目を留めてくださったというその一点にだけ目を向け、それがすべてだったのです。その証拠に49節からの歌の主語は、神様に変わり、神様がどんなお方であるかということで貫かれるのです。
 私たちプロテスタント教会はマリア崇拝をいたしません。しかし私はマリアの中にその信仰と神様をあがめる姿勢のすばらしさを見出すことはできると思います。マルチン・ルターも「マグニフィカート」という書物の中で、マリアに触れて、彼女が自身を取るに足らないもの、低きものとして、そこにくだされた神様の憐れみを賛美していること、そのことから「彼女にふさわしい尊敬と、それをもって彼女をいかにあがめ、彼女にいかに仕えなければならないかを学ぶ」と言っています。
 クリスマスは、偉大な神様が幼子の姿を通して、いと小さき者たちに救いを示された出来事です。若い名もない両親、家畜小屋、飼い葉おけ、羊飼い、東方の博士たち、どれをとっても、神様の慈しみが小さき者に向けられていることがわかります。そしてそれは、私たちにも向けられた幼子の誕生です。マリアが神様の憐れみにのみ目を向け賛美しあがめたように、わたしたちも神様の憐れみに感謝し、礼拝したいと思います。クリスマスおめでとうございます。

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2007年12月2日 松岡俊一郎(牧師)

 教会の暦が新しくなりました。クリスマスを待ち望むアドベント、待降節です。どのようにしてその準備をするか。クリスマスの讃美歌を口ずさみ、きれいな飾りを飾って、それも大切で素敵なことです。しかし教会の暦はそれとは少し違う仕方で準備するように勧めています。
 エルサレムの町に近づいた時、イエス様は二人の弟子に、向こうの村へ行って、ろばを私のところに引いて来なさい。もし誰かが何か言ったら「主がお入用なのです」と言いなさい、と言われました。彼はろばを引いてイエス様のところに連れてきました。そしてイエス様はその子ろばに乗ってエルサレムの町に入って行かれるのです。人々はイエス様のエルサレム入城を、自分の上着を地面に敷き、棕櫚の葉を振り、「ダビデの子にホサナ。」と歓声を上げ、歓迎しました。イエス様のそれまでの数々の奇跡を見聞きし、すばらしい教えを聞き、この方こそ世直しをしてくれる救い主メシアと期待したからです。
 では、イエス様はなぜ「ろば」を選ばれたのか、それもなぜ子ろばに乗られたのか。当時の権力者は馬に乗って凱旋しました。馬は支配と力の象徴でした。しかしイエス様は子ろばに乗ってエルサレムに入られるのです。
 マタイ福音書は、この出来事が旧約聖書のゼカリヤ書の預言が成就するためであったといいます。実はこの引用は、旧約聖書本文とは違っています。旧約聖書で「娘シオンよ、大いに踊れ」となっているところを「シオンの娘に告げよ」としていますし、「娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ」という節を省略しています。また、「勝利を与えられた者」を省略し、ろばの子に「荷を負う」という言葉を加えています。マタイはイエス様を単に預言の成就として伝えようとしているだけでなく、ことごとく華やかさや力強さを取り去ろうとしていることです。
 ゼカリヤ書の預言の続きを見てみましょう。ゼカリヤ書9:10です。救い主の到来によって戦いがなくなるのです。さらに今日の旧約聖書の日課も見てみましょう。イザヤ書2章4節。ここでも戦いの放棄が謳われています。このように見てみますと、救い主の到来は、力による平和の実現ではなく、力からの解放、力の関係からの決別であるといえます。
 私たちの生活と人間関係、仕事には、力関係がいつも付いて回ります。強い人と弱い人、支配する人と支配される人という立場と関係が、その場その場によってめまぐるしく変わりながら、私たちを捉えます。自分自身はそのような関係を願っていなくても、状況はそれを許してくれません。力を持ち、支配する立場にいる人が楽かというとそうではないように思います。そのような立場にある人も、その立場に縛られ押しつぶされそうになっていると思うのです。実は支配する側の人もされる側の人もその関係にしばられ窮屈な生き方を余儀なくされているのです。
 神様がイエス様によって実現しようとされる救いは、この力の関係からの解放です。それでは何をもって力を追い払おうとされているのか。それが十字架による愛です。力は対抗する力を生みます。力は敵意を生み出します。そこには平安も救いもありません。しかし、愛はその敵意を消し去ります。パウロは言います。エフェソ2:14-18。愛こそが、私たちを救い、まことの平安を与えるものです。

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