説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2007年10月 ***

聖霊降臨後第19主日

2007年10月7日 松岡俊一郎(牧師)

 弟子たちが、イエス様に「わたしどもの信仰を増してください」と願いました。それはイエス様が弟子たちに、躓きを与えないようにしなさい。さらに、赦しなさい、と勧められたからです。弟子たちはどちらも普通では難しいと考えたのです。
 わたしたちは、人に害を与えるようなことはしないように生活しています。ですから、自分の言動が人の躓きになるなどとは思いもよりません。きっと弟子たちもそう思っていたでしょう。しかし、実際は違います。人の思いというのは、お互いなかなかわかるものではありません。他人がわからないのはもちろんですが、自分でも自分の気持ちに気づかない事があるのです。本人にもわからない微妙な気持ちを他の人がわかるはずはありません。ですから、良かれと思ってしたこと、言ったことが相手を不愉快にしたり、傷つけたりすることは良くあることなのです。その意味で、自分が人の躓きになることは、大いにありえるのです。
 教会で普通「罪」というときには神様に対する罪を言いますが、ここでは「あなたに対して」とも言われていますから少し広い意味があるようです。赦しなさい、それも一日に七回です。限度を越えていませんか。いくら悔い改めたところで、謝られたところで、いい加減にしろといいたくなる回数です。しかしイエス様の命令ですから、弟子たちは赦さなければと受け止めました。でもそれには信仰がさらに必要だと弟子たちは考えたのです。
 イエス様は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と答えられました。からし種一粒とは、1、2ミリ程度の大きさです。ほんのわずかでも信仰があれば、信じられないことも起こるだろうと言われているのです。弟子たちは、信仰を量で考えていました。わたしたちも大体それに近い考えを持っています。少しは信仰を持っていると思っています。もう少し聖書の知識が増せば、もう少し教会生活を続ければ、もう少し祈りが身につけば、もっと信仰に確信を持てると考えてはいないでしょうか。しかし、イエス様にとってはそうではありません。信仰は、あるかないか、なのです。
 神様を信じるとは、知識や理屈ではありません。確かに聖書の知識や神学的理解は信仰を助けますが、しかしそれらが不可欠であるとするならば、子どもには信仰がないということになります。子どもたちは理屈なしに神様を信じます。むしろその後から身についてくる様々な知識や情報が時としてその信仰を邪魔するようになるのです。
 使徒パウロは、ご存知のように、律法の専門家で教会の迫害者でした。彼はかなり優秀な人物でした。ところが、迫害に行く途中、復活の主に出会い、目が見えなくなりました。この出来事はただ目が見えないというだけにとどまらず、彼が今まで培ってきた律法の知識がキリストと出会った時に一旦ふさがれたと理解してはどうかと思うのです。信仰は知識や理屈を超えるものです。だからこそ、子どもでも高名な科学者でも、信じることができるのです。
 信仰は自分の心を神さまのご支配に委ねるかどうかです。その一点にかかっています。わたしたちはパウロのような劇的な回心の体験をすることはまれだと思います。そのような体験がなくとも、わたしたちはイエス様と出会い、変えられるのです。そして、ないと思われるような信仰をいつの間にか手にするのです。そこにはわたしたちの予想や計画を超えた聖霊の働きがあります。この聖霊の働きを受け入れ、身をゆだねるのです。

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