説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2007年8月 ***

聖霊降臨後第12主日

2007年8月19日 管野義隆(信徒)

主なる神の分裂による鍛錬

エレミヤ23:23-29  ヘブライ12:1-13  ルカ12:49-53

 本日の福音書の日課は「分裂をもたらす」と、みじかくまとめられています。そして、主イエスは「わたしが来たのは地上に火を投ずるためである」といわれ、激しく、そしてきびしいみ旨がつたわってきます。 この主のもたらす火には、ものの不純物をとり去り純化する力と、その聖なる霊による導きの力があるのではないでしょうか。
 旧約の日課のエレミヤ書は、主のみことばによる火を次のようにしるしています。
 「主なる神は、あなたたちが、どんな隠れ場に身を隠そうとも見つけられ、あななたちの身を心をもご存知で、天をも地をも満たしておられる。偽りの預言をするものと、主なる神の言葉を伝えるものとは、もみ殻と穀物ほどの差があり比べものにならない。このようわたしの言葉は火に似ていないか。と言われる」とのべ、きびしくみ旨をつたえます。
 また福音書の日課では、主は父なる神の火のみことばを伝える宣教のなかで「その火がすでに燃えていたらと切望するけれども自分には受けねばならない洗礼がある」と続けられます。この洗礼によって、わたしたち人間の罪を救うため、主イエスは十字架にかかり復活されました。それは主イエスをとおして神からの聖霊の火を、わたしたちにおくられる神のみ恵みです。しかし主イエスは、洗礼が終わるまで自分はその苦難にどんなに苦しむことだろうと告げられます。その計り知れないお苦しみは如何ばかりだったでしょう。
 そして、更に「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではなくて分裂だ。」といわれるのです。更に「主の火によって、家族、父子、母娘、嫁・しゅうとめが対立して分かれる。それは、平和ではなくて、分裂をもたらすためだ」と断言されるのです。
 人間は神によって創られ、その命を賜りました。そして神への反逆の続く中で、神から出エジプトのおりにいただいた「十戒」によって、主なる神に従い、父母をはじめとする肉親は勿論のこと、隣人と共に平和に生きるべきことを神から教え命じられました。
 しかし、人間はいつも主なる神の教えと恵みを忘れ、己のみの思いと、利にはしる罪をおかします。この罪深い人間に主なる神はみ子キリストをおくられ、十字架による死によって人間をすべての罪から救われました。ところが一方、福音書では、み子イエスが地上にこられた目的は、この罪深い人間同志の間に「分裂」をもたらすためであると、ご自身からきびしく語られます。敵対する者同志の間にも、平和と恵みをもたらす方だと信じるわたしたちにとって、それは、何という大きな驚きでしょう。
 だが、一歩ふみとどまって主のみ旨を思うとき、己のみのおごり、たかぶりと悲しみ又なやみにはしる、人間のわがままな思いを止め、省みるときを与えて下さる恵みが見えてくるようです。主なる神は人間を滅ぼすため火を投げ込まれたのではなく、互いの交わりの中に主が自ら入りこまれ、わたしたちの罪にきづかせ、人間の思いを破壊しながら共に歩んでくださる、主にある大きな恵みを意図されたのではないでしょうか。
 日課のヘブライ人への手紙は「霊の父はわたしたちの益をなるように、御自分の神聖にあずからせるためにわたしたちを鍛錬し、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」と励まし、イザヤ書[32-17]は「正義が造り出すものは平和であり、正義が生みだすものはとこしえに安らかな信頼である」といっています。主なる神は恵み深く、そしてきびしくわたしたちを教え導き、共に歩んで下さいます。これからも兄弟姉妹とご一緒に、そして主イエスの火にみちびかれて日々を歩んでゆけますよう、お祈りいたします。 アーメン

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聖霊降臨後第10主日(平和の主日)

2007年8月5日 松岡俊一郎(牧師)

信仰は愛を、愛は平和を

 人は自分の存在が脅かされる時に、恐れを抱きます。実際に痛みを負わされたときには、いや実際に被害に遭わなくても、その恐れを感じただけで警戒し、敵意と憎悪が生まれます。それを止めることは容易ではありません。それを回復するために必要な、愛すること、信じあうことがすでに奪われ、失われてしまっているからです。
 世界各地の民族紛争は、そこには私たちの理解を超えた複雑な問題があり、そこではもはや政治的な対立にとどまらず、殺戮による個人的な憎悪の連鎖がとどまることなく広がっています。また、今日の世界は一つの国の中だけで完結するのではなく、資源、経済、環境とあらゆる面で深いつながりを持っています。一つの国の問題や混乱がすぐに他の国に飛び火していくのです。このような複雑な社会に対して私たちは大変な無力感を感じます。私たちが小さな声を上げたとしても、どれほどの意味があるかと思ってしまいます。
 預言者ミカは預言者イザヤと同時代に生きた人でしたが、イザヤが時の権力者に対して発言力を持っていたのに比べ、ミカは民衆の中にいた人でした。ミカは民衆の中にあって3:9以下にあるようにエルサレムの審判を強烈に預言しました。そして今日の日課である4章では、3節の言葉のように実に印象的にイスラエルの回復を預言しています。ミカはまったく無力な中で、国と権力者、民衆の神様への背信を批判し、一方で神様の救いの預言を力強く宣べ伝えたのです。
 イエス様が愛を説かれたのもそのような無力な人たちに対してでした。今日の福音書の日課では弟子たちに向かって語られていますし、山上の説教で「平和を実現する人たちは幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われた時にも、一般民衆に向かってでした。このように、イエス様は特別に力のある人たちに語られたのではありませんでした。むしろ、社会的には力のない人たちに向かって語られ、語られた人びとはそれを信仰によって受け止めたのです。そのことによって、そのときには社会において何か大きな変革が起こったわけではありません。しかし、人びとの心には確かに変化が起こるのです。同じように、力のない私たちの平和を求める願いも、決して無駄に終わることはありません。キリストが平和を実現するようにと求めておられるからです。
 そこには、大きな愛の力がありました。愛の力を、平和を作り出す道具として与えられるのです。パウロは愛について具体的に語ります。コリント前書13章です。私たちの間にこの愛が実現するならば、きっと平和も実現するはずです。私たちがこの愛に満たされるためには、何が必要なのでしょうか。それはまず神様がそのような愛を私たちに与えてくださっているということです。
 使徒書の日課にはこう言います。「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に作り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
 キリストは、ご自身の十字架の死という愛の実現によって、敵意という隔ての壁を取り去られたのです。私たちの心にある良心ではなく、人道的な考えでもなく、神様ご自身が人の敵意の中にある罪を滅ぼすことによって、新しい人間、新しい関係へと造り変え、平和の道具として用い実現してくださるのです。
 私たちは大きな存在ではありません。力もありません。私たちのささやかな声や行動で解決できるほど社会の問題は簡単ではありません。しかし、それでも神様は私たちを平和の道具として用いてくださいます。私たち自身が道具として用いられること、そのためには神様の十字架による救いと愛をまず信じることが必要です。その信仰なしには、道具が道具としての働きをすることは出来ないのです。神様の道具は愛によって働くからです。

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