説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2007年7月 ***

聖霊降臨後第9主日

2007年7月29日 松岡俊一郎(牧師)

みことばから生まれる働き

 マルタとマリアいう女性が登場します。今日のエピソードはルカによる福音書固有のものですが、ヨハネによる福音書はこの姉妹をラザロの兄妹として描いており、マリアをイエス様の足に香油を塗った女性として描いています。
 マルタはイエス様の一行を招き入れます。マルタは、もてなしのためにたくさんの料理を作り、かいがいしく働きました。それが女性の務めだったからです。一緒に働くべきマリアはイエス様の足元に座り、イエス様の話に聞き入っていたのです。これに気づいたマルタは、マリアの態度を不満に思い、イエス様に「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と訴えたのです。二つの思いがあります。ユダヤの習慣に従って女性は給仕に専念すべきなのに、マリアはそれに従っていない。もう一つは、自分だけが働いてマリアはイエス様のそばにいる。いずれもマルタにとっては自然に沸き起こる気持ちではなかったかと思います。
 しかし、イエス様は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。」と言われました。これではまるでマルタが愚かで、マリアが賢いとばかりに聞こえてきます。イエス様の言葉はマルタへの裁きではありません。マルタもまたイエス様にとって大事な弟子の一人です。「マルタよ、マルタ」との呼びかけは、マルタにもわたしの言葉を聞いてほしい、あなたにとって良い方を選んでほしいとのイエス様の愛情の現われだったのです。
 旧約聖書の日課には、アブラハムに神様が旅人として現われ、アブラハムがもてなす姿が描かれています。神様はそのもてなしに満足され、みことばを語られます。アブラハムのもてなしには、一緒にみことばが与えられるのです。そしてそのみことばを受け入れることが求められるのです。どちらが先というわけではありません。みことばと奉仕はひとつのこととして考えられるのです。
 人の奉仕は、みことばを聴いて、自分が生かされ、豊かにされることによって、喜びを感じることによって真心からのものになってくるからです。マルタはもてなしのために働きました。しかしそれをしないマリアに不満を感じてしまいました。それはマルタのもてなしがみことばと結びついていないがゆえに、みことばによって自分自身が豊かにされ、喜びへの奉仕と導かれていないがゆえに真心の奉仕になっていなかったことを表しています。
 私たちをまごころの奉仕へと導くみことばとは何でしょうか。それはイエス・キリストが、ご自分を私たちのために捧げ奉仕してくださったという救いの事実です。
 イエス様は、ルカ12章で主人が僕の給仕をするとたとえを語られていますし、さらに最後の晩餐の時に、弟子たちの足を洗われました。ペトロがそれを畏れ多いこととして断ろうとすると、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われました。これは単に足を洗うだけではなく、イエス様の十字架の死という最大の奉仕を受け入れることを意味しています。この十字架の救いによって人は、自分の弱さや罪深さにとらわれることなく、自分自身を受け入れ、喜びとすることが出来るのです。このようにイエス様のみことばは、自らを捧げられた十字架という奉仕と一体のものです。みことば抜きの奉仕は、奉仕する人を豊かにしませんが、みことばと結びついた奉仕は、奉仕する人を生かすのです。みことばの良き聴き取り手は、良き働きへと導かれるのです。

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聖霊降臨後第七主日

2007年7月15日 鈴木亮二(信徒)

神様の考え、わたしたちの考え

ヨナ4:1-11  ガラテヤ5:2-26  ルカ9:51-62

 私たちの考えは神様の考えとおうおうにして違うことが多いことに気づかされます。ヨナは、決死の思いをもって「ニネベの町は滅びる」と預言したのにそれが実現しなかったことに腹を立てます。そんなヨナに、神様は「それは正しいことか」と問いかけます。パウロは、割礼を受けたガラテヤの信徒の人々を「律法に従う者は、キリストとは縁もゆかりもない者だ」と強い口調で非難します。
 今日の福音書は、イエス様に従おうとしていた3人の人の物語です。一人目は、自ら言います。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」。しかしイエス様は、「私に従うということは、今夜寝る場所もわからない。そういう生活にお前はついて来れるのか」とばかりに答えます。二人目、三人目の人には、イエス様の方から「ついて来なさい」と声をかけます。ところが、それぞれに対して、「葬式は死人に任せよ」、「神の国にふさわしくない」と突き放されます。
 何か物事を始めようとするときに「その前にこれをしておかないと」と思うことは良くあります。「従いなさい」と言われた人は、「父を葬りに」、「家族にいとまごいに」と普通に考えれば、当然認めてもらえそうな願いごとです。特に当時のユダヤでは「父」というのは家族の長ですから、子どもが父の葬式をするのは非常に大事なことであったはずです。
 イエス様がこんな突き放したようなことをおっしゃった理由のひとつ目としてあるのが、51節にあります。イエス様にとって、もう十字架への道は始まっていたのです。道にあと戻りはなく、イエス様に残されていた時間はあとわずかだったのです。そう考えると、イエス様は「今すぐ従いなさい」と言われているのです。
 ふたつ目の理由は、二人目、三人目の人の言葉にあります。どちらの人も「まず」という言葉を使います。たった2文字ですが、イエス様に従うことに同意しながらも、それよりも優先してやることがある、と言っているのです。イエス様に従うチャンスは今しかないかもしれないのに、これではチャンスを逃してしまうのです。
 イエス様は「まず」何をしなさい、と言っているのでしょうか。聖書の答えはマタイ6:33「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」にあります。私たちにとって、まずしなければならないのは「神の国と神の義を求める」ことなのです。毎日起こるいろいろなことに思い煩っているのではなく、まず神様を見つめることが大切なことだ、と言うのです。「葬儀をするな」、「家族との別れをするな」と言っているわけではないのです。イエス様が言う言葉は、神様に行きつく前に、つい目の前にある気になるものに心を奪われてはいけない、と言われているのです。
 「まず、神の国を求めなさい」と言葉で聞くと、その通りなのですが、いざ行なうのは難しいことです。大切なものの前に、私たちはつい私たちに近い日常のことに目が奪われてしまいます。しかし神様は言います。「それは正しいことか」。十字架のときが近いイエス様も私たちをしかります。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。しかもイエス様は、今日登場した3人にそれぞれ違う言葉をかけてくださったように、私たちの迷いや悩みを取り除くのにふさわしい言葉で呼びかけてくださいます。私たちは、この神様の問いかけ、イエス様のしかる声に耳を傾け、まず第一に神の国を求めようではありませんか。

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