説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2007年6月 ***

聖霊降臨後第三主日

2007年6月17日 小山 茂(神学生)

会わずに信頼する

ルカ福音書7:1-10

《百人隊長の変化》
 彼の部下の一人がそのとき死にかかっていたのです。百人隊長は自分が目をかけている部下の命を、何とか助けたいと思っていました。そんな時、数々の癒しをされたイエスという方がこの町に来られていると知ります。その方ならば部下の命を救えるかもしれない、いやきっと救ってくれると思ったのでしょう、しかし、自分が直接会うのではなく知り合いのユダヤ人の長老に使者を頼みます。

 その長老たちは主イエスのもとに来て、彼の依頼を熱心に願いました。彼らは言います、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。」《7:4》 主イエスは頼みを聞き入れられ、一緒に百人隊長のところに向われます。ところが主イエスと長老たちが近くまで来た時、百人隊長は友人を差し向けて言わせます。「主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」《7:6~7》

 そのように、百人隊長の依頼ですぐそこまで来ている主イエスに、我家にわざわざ来られるには及びませんと伝えます。なぜなら、私があなたを迎えられるほどの者ではありませんから。私はあなたから見れば取るに足りない者で、それはもったいないことです。長老たちに主イエスへの取次ぎを願った時から、それほど時間が経っていないのに、百人隊長に何か変わったところが見られます。先ほどまで部下の命を救ってくださる方と慕い、もう少しで会って直接癒していただけるのにどうしたのでしょうか?

 残念ながら聖書にはその細かな理由が記されていません。でも先ほどの友人から伝えられる言葉の続きに糸口を見つけます。「わたしも権威の下(もと)に置かれている者ですが、わたしの下(した)には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」《7:8》 つまり、百人隊長は軍人であり、指揮命令系統により彼は兵士を動かし、また自らも動かされます。彼はこの地を治めるヘロデ・アンティオパスに雇われ、百人隊長と言う肩書きをもらい、その権威付けをされています。軍事的作戦行動をとるには、個人の同意をいちいち必要とせず、上官の命令が全てであり絶対的に服従します。

 それと同様に、主イエスに与えられた権威、その権威と共にある言葉の力に依り頼むことで、彼の部下が救われると考えたのでしょう。父なる神から与えられた主イエスの権威を、百人隊長は認め、そして受け入れます。ですから、権威の裏付けのある言葉が力を持つと信じて、もう我家に来られる必要はありません。どうかその場で私の部下のために、癒しの言葉を一言おっしゃってくださいと言わせたのです。そのため、百人隊長はもう少しで主イエスに会えたのに、会わないままになります。

《会わずに信頼する》
 彼は自分から出向かずに長老たちを送り依頼し、また友人を送りその場で部下のためひと言くださいと言わせます。そして、来ないでいい理由として三つあげています。(1)主よ、ご足労には及びません。(2)あなたを我家にお迎えできる者でない。(3)私から伺うのもふさわしくない。つまり、彼は主イエスが自分より高い所におられる方であり、自分は対等に会い話すこともはばかられると思っているのでしょう。ユダヤ人ではなく異邦人である彼が、主イエスがどなたであるかを知っていたのだと思うのです。

 と言うのは、「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。」《7:9》とありますが、この振り向いては、実はルカ福音書においては特別の意味があります。これは次に語られる主イエスの言葉を、特に強調する時にルカが好んで使うことばです。すなわち、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」《7:9》 この主イエスのお言葉がルカにとってここで非常に大事なのです。異邦人である百人隊長の信頼を、これほどまでに認める言葉が他にあるでしょうか。主イエスがそのように認められた彼の信仰であれば、主イエスは救い主であると彼は信じていたのではないでしょうか。百人隊長の主イエスへの強い信頼から、会う会わないはもう問題ではありません。会わなくても信頼する、異邦人として百人隊長は「会わずに信頼する」信仰を認められます。

《異邦人への恵み》
 百人隊長はイスラエルに属していない異邦人なので、自分を主イエスから遠くにおくように行動します。彼はイスラエルの後をそうっとついて行こうとしていましたが、気がつかないうちにイスラエルを追い越していました。そのことを、主イエスは「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と百人隊長の信頼を認めます。それどころか、異邦人である彼の信仰を最高のものと宣言されます。

 彼のように主イエスに直接会わずに、直接言葉をいただけずにいる人たちにとり、この出来事は励まされ、力づけられるものです。それは、私たち異邦人に向けられた福音です。なぜなら、聖書を通して、メッセージを語り聴くことを通して、主イエスのお言葉を力あるものとして、私たち一人ひとりが受け取っているからです。主イエスのお言葉は、いつでもどこでも私たちの信仰を育(はぐく)み、私たちを養っています。そのような体験のひとつかふたつ、いやいくつもの体験を皆さんもお持ちでしょう。私もそのような恵みをいただいています。百人隊長と同じように、主イエスは私たち異邦人の信仰も認めてくださっています。

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三位一体主日

2007年6月3日 小山 茂(神学生)

聞いたことを語る真理の霊

ヨハネ福音書16:12-15

《真理》
 ここで真理という言葉について考えてみましょう。真理はギリシア語でアレーティアといいますが、本来の意味は「隠されていない、覆いを取られた在りのままの姿」こそ本当であるとのニュアンスがあります。そこから真理とは、「隠れていた神の本質が現れること」と言えます。福音書記者ヨハネはこの真理と派生する言葉を何度も好んで使っていることから、「真理」という言葉がヨハネ福音書の今日の日課を理解する鍵となります。それはイエスさまを通して神の啓示、つまり私たちの理解を超えたことを神が現し示すことです。「人知では計り知れない出来事」という言い方をしますが、私たちが知恵や常識によって理解できないことがあります。この真理を具体的にいえば、罪から救う十字架の死、その死からの復活といって差し支えないと思います。

 イエスさまが「真理とは何か」とひとりの弟子の問いに、単刀直入に答えられたヨハネ福音書14章6節があります。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」御自身が真理である、命であると、たいへんはっきりと言われ、だからわたしは道であると宣言されます。このお方の執り成しがなければ、誰も父である神のもとに行けないとはっきり断言されます。ということは、聖霊の働きとは何よりも真理である主イエスに、当時の弟子たちを、そして今の私たちを結び付けることではないでしょうか。

《語り聞いたことを告げる》
 福音の日課に戻ります。「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。』《16:13b》その方つまり聖霊が語ることは自分からではなく、どなたから聞いたことを語るのでしょう。どなたかは書かれていませんが、神さまとイエスさま以外にはおられません。「父が持っておられるものは、すべてわたしのものである」とイエスさまは言われるように、イエスさまは神と持つものを共有されているので同じなのです。聖霊はイエスさまに代わってそのお言葉・そして、これから起こるイエスさまご自身の死・復活・神のもとに帰る昇天を、引き継いで伝えます。2000年前に起こり成就したイエスさまの出来事を、聖霊は弟子たちに深く理解させるよう手引きしてくれます。告げると訳されているもとの言葉には、もっと深い意味があります。聖霊は弟子たちにただ単に告げるだけでなく、イエスの使信を引継ぎそして耐え抜くことができるように力づけます。だから聖霊は助け主(パラクレートス)と呼ばれ弟子たちだけでなく、その後に連なる私たちにもイエスさまの出来事を告げ、そして力づけ続けてくれます。聖霊の働きはその時弟子たちに一回きりのことではなく、その働きは今私たちにも継続されています。

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