説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2007年5月 ***

聖霊降臨祭

2007年5月27日 松岡俊一郎(牧師)

集める風、散らす風

創世記11:1-9  使徒言行録2:1-22  ヨハネ16:4b-11

 今日は聖霊降臨祭です。イエス様を天に仰いだ後、集まっていた弟子たちの上に聖霊が降り注ぎ、彼らが雄雄しく宣教に出て行き、それをきっかけに教会ができていくという衝撃的で教会にとっては大切な出来事を記念する日です。この日こそは、日ごろ福音書の学びの中では、ヨハネ福音書を除いては、語られることの少ない聖霊が主役です。聖霊は、聖書の中では「息」とか「風」とも訳されている言葉です。

 創世記のはじめ、天地が神様によって創造されたとき、神様は霊に命じて天地を創造されました。また人間を創造されたときには、土の塵で人の形を造り、そこに命の息を吹き入れられました。そしてそれらは全地に広がり、人々もまた「生めよ、増えよ、地に満ちよ」命じられました。神様は霊を吹き入れられ、それを全世界に広がるように散らされたのです。霊が吹き込まれ、散らされる、地に満ちることは、神様の意図であり、祝福であったのです。

 旧約の日課は、有名な「バベルの塔」の話です。世界の人々は同じ言葉を使って、同じように話していました。彼らはレンガを作り、それを焼き、アスファルトを用いて「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう」と徒党を組むのです。世界に散るように命じられていた人間はここに来て、散らされることのないように企てるのです。二つの意図があります。一つは散らされることへの恐怖です。散らされることは、神様が祝福し、意図されることでした。しかし人は、散らされることに恐怖を覚えるのです。それは神様への不信から来る孤独への恐れでもありました。神様を信じられないと独りに耐えられないのです。もう一つは、有名になるためです。有名になるとは、自分の名声を立てることです。つまり、神の意に背いて、神様よりも自分を前面に、高い位置に置きたいという欲望です。これらは、罪に基づくものです。罪に基づき、罪に従って人々は集まり塔を建てようとしたのです。これに対して神様は、「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられるようにしてしまおう」と彼らを散らされたのです。人の罪に基づく結集と神様の裁きとしての離散でした。神様のみ心と離れたところでの結束、それは傲慢に基づく、やがては分裂と破壊を招くものだったのです。

 聖霊降臨の出来事に目を向けて見ましょう。使徒言行録によれば、弟子たちは一つのところに集まって祈っていました。復活の主が送ると約束された弁護者、聖霊を待ち望むために集まっていたのです。実際には、彼らの中には、ユダヤ人を恐れる臆病さもまだ残っていたに違いありませんが、いずれにしても、イエス様が命じられたように集まっていたのです。そこに聖霊降臨が起こりました。突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響き、そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人一人の上にとどまったのです。そして、人々は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出したのです。宣教の始まりです。そこにはいろいろな地方の人たちがいました。弟子たちの多くは、ガリラヤ地方の出です。ガリラヤ地方のことばには独特のなまりがあったと言われますから、他の人たちは、弟子たちがガリラヤ出身だとすぐわかったのです。しかし弟子たちはガリラヤのなまりで話すのではなく、そこにいた人々の出身地の言葉で話し始めたのです。そこには外国の人たちもいました。彼らはその外国の人たちにもわかるように話し始めたのです。それはある人には不思議なことに思え、ある人々にはお酒に酔ったように見えたようです。しかしペトロをはじめとして弟子たちは、預言者ヨエルの言葉をもって預言の成就を知らせたのです。
 ここにも結集と分散があります。それはイエス様が命じられた聖霊を待ち望む祈りのための集まりであり、主イエスの復活を世界に宣べ伝えるための拡がりです。

 このように神様は集められ、散らされるのです。しかしここで注意したいことは、神様の意図による結集は祝福の分散となり、人の罪による結集は裁きとしての離散となるということです。聖霊降臨が起こった結集は、聖霊を待ち望む祈りのためでした。それは神様の意図による結集です。そして神様に信頼し、力を求めるのです。ここでの弟子たちには何の前提もありません。彼らはイエス・キリストの十字架の死によって、空っぽの状態でした。それまで弟子として培われてきた知識も名誉も十字架の前でなくなってしまっていましたし、十字架の前ではイエス様に従う信仰さえも失っていたのです。しかし彼らは復活の主によってもう一度いのちが与えられ、聖霊を待つように命じられるのです。聖霊こそが彼らを新たに動かす原動力だからです。彼らを養い導くからです。
 聖霊降臨によって、彼らは今度は散らされます。そしてこの散らしは、神様の確かな意志をもった派遣となって全世界に広がっていくのです。

 教会が神様の霊を求める祈りの集団となるとき、そこではみ言葉が語られ、聖霊の導きによって聞き取られ、私たちはみ言葉を携えてそれぞれの生活に散らされていくのです。それは証しと伝道への派遣です。

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昇天主日

2007年5月20日 関口昌弘(信徒)

天に上げられる

使徒言行録1:1-11  エフェソ1:15-23  ルカ24:44-53

 イエスさまの十字架、復活、昇天、聖霊降臨、(再臨) この一連の出来事は、キリスト教の根幹をなす出来事です。しかしそれは、イエスさまと行動を共にしている弟子たちでさえ、にわか信じることが出来ないほどの出来事でした。ヨハネ福音書は、最後の晩餐の出来事とそこでの別離の説教のために13章から17章まで長い記述をしています。イエスさまのお話は、弟子たちのとまどい・混乱への思いやりから懇切丁寧なものです。また後世の信徒のためでもあります。
 この一連の出来事は、人間の知識や知恵では、とうてい理解が出来ない事柄なのです。
 ルカ24:36節以下でもそのことを現しています。弟子たちは、復活のイエスさまにお逢いして、恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。イエスさまは、手や足を見せ触ってよく見なさいと仰る。また、焼いた魚を食べてみせておられます。本日の昇天の事実も再臨の預言も人の理解を超えた出来事です。それを理解し信じるのは信仰以外にはないのです。
 子どもたちの問い、イエスさまは何処に行ったの? 天国ってどこにあるの? この問いに正確に答えられる人は、誰もいません。

 最近「千の風になって」という歌があります。NHKのクローズアップ現代でこの歌が取り上げられました。作曲・日本語作詞 新井 満さんも出演していました。信州のある家族のお話が取り上げられ、新井 満さんも涙して聞いていました。お父さんは死んだの? 何処へ行ったの? この歌は、お父さんの歌だね。

 心の目を開いて(ルカ45節、エフェソ1:18)信仰の目を開いて、イエスさまのみ言葉に従う。これが私たちの生き方です。

言行録1:8節
  「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
パウロの祈りエフェソ1:17~23
 「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることが出来るようにし、心の目を開いてくださるように。」・・・「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」

 信仰により受け止められたみ言葉は、信仰者を通して働く神の力、そして教会を通して託された神の力を語っています。パウロが祈っている教会とは、見えない理想の教会なのでしょうか。恐れ多いことですが、日本福音ルーテル大岡山教会も神さまの現実の教会なのです。

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復活後第五主日

2007年5月13日 松岡俊一郎(牧師)

主イエスの約束

使徒言行録14:8-18  ヨハネ黙示録21:22-27  ヨハネ福音書14:23-29

 イエス様はエルサレムに入ってから、弟子たちとの別れとご自分にこれから起こるであろう死について繰り返し語られていました。物分りの悪い弟子たちもイエス様との別れが近いことは予感したにちがいありません。そしてそれは彼らにとって大きなショックであり、不安と悲しみが襲ったことでしょう。しかしイエス様は「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ」といわれます。そんなことがありえるでしょうか。弟子たちは自分たちの生業を捨ててまで従ったのです。強く信頼し、頼ってもいたはずです。いや、それ以上に、彼らはイエス様と共にいること、そこに生きる希望と力を感じていたのです。そんな彼らが別れを告げられて平気でいられるはずはありません。彼らの間に動揺が走りました。
 わたしたちもイエス様と離れている自分に気づくことがあります。信じていても、礼拝に集っていても、聖書を読んでいても、実際の生活や仕事の様々な出来事に翻弄され、寂しさや取り残されているような思い、見捨てられたような思い、言い知れぬ孤独感を感じることがあります。生活に手ごたえを感じることが出来ない日々があるのです。詩編の作者たちも嘆きます。10篇「主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」、13篇「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、み顔をわたしから隠しておられるのか」、22篇「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きの言葉も聞いてくださらないのか。」弟子たちの不安と恐れは、わたしたちの日常でもあるのです。信じていても悩むのです。信じていても孤独なのです。
 残されていく弟子たちに、取り残されたような思いになっている弟子たちにイエス様は約束されます。保障されるのです。その保障の内容は、父なる神ご自身が、弟子たちを愛し、捉えはなさないということです。そして聖霊の守りと導きという仕方で、ずっと寄り添ってくださるのです。
 神様は弟子たちに、そしてわたしたちにイエス様は、聖霊を与えられます。弟子たちと離れるイエス様に代わって、聖霊が弁護者として「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」のです。聖霊はイエス様とは違った仕方で、あらゆる機会を通して、それもじっくりと教え、悟らせてくださるのです。わたしたちが多くの場合経験する聖霊体験は、それとは気づかない仕方で起こります。起こっている時には気づかず、過ぎ去った後、振り返った時にそこに確かに聖霊が働いてくださっていたと知ることが出来るのです。
 わたしたちが仕事や生活の中で経験するつまずき、失敗、病気、人間関係の亀裂、そして挫折感、絶望感。それらのものはわたしたちの生きる力を奪ってしまいます。しかし、神様は沈み込んで行くわたしたちを聖霊を通して引き上げてくださいます。聖霊は聖書を通して、書物を通して、人を通して、自然とのふれあいを通してわたしたちに神様の力と愛を伝え、再び命を吹き込んでくださるのです。
 イエス様はニコデモというファリサイ派の議員と霊について語り合われた時、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのか知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と言われました。風は強ければ、いやおうなしに感じます。しかし弱ければ、そしてわたしたちが自分に夢中になっているときには、風を感じません。聖霊は、わたしたちが必死になっているときに衝撃的に働くのではなく、ふとしたとき、それは自分というものを、そっと傍らに置いたときにフッと働くのです。イエス様の約束は、神様の約束です。それはどんな時にも実現します。

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復活後第四主日

2007年5月6日 小山 茂(神学生)

互いに愛し合いなさい、わたしが愛したように。

ヨハネ13:31-35

 「子たちよ」と主イエスは、弟子たちに親しみのこもった呼びかけをされます。「いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。」《33》集められた弟子たちといつまでも一緒にいられないと告げられます。自分たちが信じて付き従ってきたお方がいなくなるとは、しばしば伝えられてきましたが、彼らに恐らく分からなかったでしょう。主人を見失ってしばらく絶望する弟子たちを、あらかじめご存知の主イエスは次の戒めを与えます、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」《34》主イエスが一人ひとりを呼び集められた共同体に、互いの愛を兄弟の中に求められます。弟子たち一人ひとりに自らの愛を与えられ、そして彼らの絆が形づくられます。そのためこの愛を弟子たちの中に再び呼び起こされます。愛は主イエスと離れずつながる唯一の接点だからです。

 どれほど主イエスが弟子たちを愛されてきたか、一人ひとりの足を洗われたことを思い起こします。洗足(せんそく)とは召使が主人にすることであり、主イエスはかがんで身を低くされ、弟子たちの泥だらけの足を洗われ、腰にまとった手ぬぐいで拭われます。でもペトロが「わたしの足など決して洗わないでください」と言うと、主イエスは「もし、わたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えます。《13:8》私たちが通常足を洗うとは、それまでの良くない仕事をやめて正しい仕事に就く、関係を解消するという意味です。聖書の日課では逆転して、私があなたの足を洗わなければ、あなたと私の関係がなくなると言います。主イエスの十字架の恵みから和解に招かれるように、弟子たちの足を洗うことにより、弟子たちとの交わりを更に深くされます。三度(みたび)イエスを知らないと直後に言うペトロは躓(つまず)きから立ち直るためにも、主イエスに足を洗ってもらう必要がありました。

 主イエスは手厚いもてなしを通して、一人ひとりをどれほど愛しているか示されました。そのされてきた愛に倣って、弟子たちもお互いに愛し合いなさいと告げられます。主イエスは御自分の命を捨ててまで、私たちの救いのために神の御旨に従われました。私たちが主イエスの愛にどのように倣っても、到底及ぶところではありません。それでも、主イエスの愛を受け取り「ありがとう」という感謝の気持ちをもつ時、その愛を周りの人と分ち合いたいと思えるようになります。感謝の心を持つ恵みを与えられる、その恵みを共同体に返す喜びを与えられます。それも命令ではなく自発的なものとして、主から喜ばれる者とされていく、そのように相互愛の戒めを聞きます。

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