説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2007年4月 ***

復活後第三主日

2007年4月29日 松岡俊一郎(牧師)

主の声を聞き分ける

ヨハネ10:22-30

 「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」ユダヤ人たちがイエス様を取り囲んで詰め寄りました。もしここでイエス様が「そうです。私がメシアです」とお答えになったら、彼らはどうしたでしょうか。彼らはイエス様を信じたでしょうか。きっと信じなかったに違いありません。イエスさまが「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行なう業が、わたしについて証しをしている」と言われているように、彼らは何度も知る機会があったのです。しかし彼らを信じませんでした。直前の生まれつき目の不自由な人が癒された時、人々は癒しの奇跡の目撃者でもありました。また、イエス様が目の不自由な人に「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と言われた時、人々もまたそれを聞いているのです。それなのに彼らは、信じないのです。

 理解しようとしない、信じようとしない人には、どんなに丁寧に話をしたところで通じません。はじめから聞く耳を持たないからです。「求めなさい。そうすれば与えられる。」という言葉がありますが、人が求めるときには、その答えを受け入れる用意があるのです。反対に求めない人には、受け入れる用意がないのです。用意がないどころか、はじめから拒否しようと構えていますから、どんな努力も通用しないのです。

 この出来事が起こったのは、神殿奉献記念祭のときでした。この祭は、ユダヤ人がシリアの迫害から信仰を守り通したという民族の誇りとなる祭りでもあったのです。その最中に、それも神殿の中で、自分たちに信仰がないと言われたのですから、イエス様の言葉はユダヤ人たちの逆鱗に触れたのです。ユダヤ人たちは石を取り上げ、イエス様を打ち殺そうとまでしたのです。

 BGMという音楽があります。BGMは、きれいな音楽を静かに流して、その場のざわめきを抑え、人々を穏やかにします。最近では、自然の中で録音した川のせせらぎ、鳥の声などが、人のこころを安定させるということで人気です。BGMはそれを聞こうとすれば聞こえるほどの音量です。話に夢中になっていると、音楽や川のせせらぎ、鳥の声は聞こえません。人は自分とって不必要な音は、自動的にシャットアウトします。突然の音であったり、大きな音は、その対応が出来ませんから、苦痛な音として入ってきます。逆に聞きたい音はかなり小さな音でも聞くことが出来ます。

 イエス様の羊はイエス様の声を聞き分けると言われます。それは羊が羊飼いの声を聞こうとしているからです。聞こうとしない人には聞こえないのです。羊飼いを信頼しているから羊はついていくのです。信頼しない人はついていかないのです。イエス様がわたしたちを選別されているのではありません。イエス様は「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と言われています。イエス様はわたしたちを捜し求めておられるのです。しかし、わたしたちが、他のことに気を取られたり、従うことを躊躇ったりしているのです。わたしたちはイエス様の言葉を「信じない者は、わたしの羊ではない」と、裁かれているように聞いてしまいます。しかし、イエス様の基本姿勢は、わたしたちを招いておられます。それも生半可な招きではなく、どこまでも探し続けられる、どんなことをしても受け入れようとされるのです。そしてそれはついには十字架の死をもって果たされたのです。

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復活後第二主日

2007年4月22日 松岡俊一郎(牧師)

主の平安があるように

使徒言行録9:1-20  ヨハネ黙示録5:11-14  ルカ24:36-43

 イエス様の十字架の前での弟子たち、復活の主に出会ったときの弟子たちは、わたしたちを安心させてくれます。わたしたちに、信仰というものは最初からあるものではないということを、身をもって教えてくれるからです。むしろ彼らの姿から見えてくるのは恐れであり、疑いです。

 復活の主に出会った弟子たち、そこには弟子たちの不信仰があぶりだされています。イエス様が十字架にかかられる以前から、彼らはイエス様が何を考え、何を目指しておられるのか理解していませんでした。いつも頓珍漢な応答しか出来なかったし、しばしば叱られていました。一緒に死のうなどと口走っていながら、彼らは誰一人としてイエス様と一緒にいることが出来なかったし、一番弟子のペトロにいたっては、三度も「知らない」と関係を否定しているのです。

 主の復活の日曜日の夜の出来事です。エマオ途上でイエス様と出会った二人は、急いでエルサレムに戻り、他の弟子たちに報告しました。弟子たちは集まっていました。そのとき弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。そんな弟子たちの中にイエス様は突然その姿を現されます。彼らは恐れました。それはまるで亡霊のように突然であったからです。彼らの話題はイエス様の復活そのものでした。数時間前に復活の主と出会ったということが話題の中心でありながら、彼らは復活の主を目の当たりにして恐れているのです。無理もありません。死人が復活するなど、どんなに予告されたことであったとしても、イエス様がたびたびその奇跡を見せておられたとしても、普通では考えられなかったからです。イエス様は信じられない弟子たちのために、焼いた魚を食べて見せられたのです。弟子たちが信じるためにどこまでもサービスされるのです。

 パウロは、当初イエス様を信じていませんでした。復活そのものは信じていたでしょう。しかし、彼は信じるどころか、徹底的に攻撃し迫害していたのです。そんな彼は、キリスト教徒を迫害しに行く途中、復活の主と出会い、劇的な回心を遂げるのです。三日間目も見えず、食べることも出来ず、まさに死んだようになり、主が命じられたとおりに従うことによって、復活したのです。その直後、彼は洗礼を受け、熱心に伝道を始めるのです。

 このような弟子たちとイエス様の姿を見ていくと、わたしたちのかたくなな心と、その心に働きかけられる神様の深いいつくしみと不思議さを感じます。復活という信じがたい奇跡の理解だけでなく、神様のみ心を知ること自体、自分にしか目が行かない、自分を守ることに必死になっている私たちには難しいのです。しかし、それでも信じるように求められています。そして疑いは信仰に変えられるのです。それは聖霊の御業です。神様が信仰を求め、聖霊を通して与えられるのです。今、信じられないからといって不安になったり戸惑いを感じたりする必要はありません。時が備えられるからです。わたしたちの信仰はいつも途中です。スタートを切ったかと思うと、再び戻ったり、熱心になったりさめたり、行ったりきたりの繰り返しです。そんなわたしたちを神様は決して見捨てられません。それどころか、ふさわしい時にいろいろな方法で、わたしたちを信仰へと導かれるのです。

 教会が幼稚園を作り、幼稚園と共に歩んでいるのもその一つの証しです。神様は大岡山幼稚園を通して実に多くの実りを与えてくださっています。子どもたちと保護者の皆さん、地域の方々が神様の愛を知り、愛をはぐくみ、伝え合うことが出来るように、願い、共に努力し歩んで行きたいと思います。そして先生方、ボランティアの方の上にも神様の豊かな祝福をお祈りします。

 今日、わたしたちはもう一つの恵みを与えられています。教会学校教師の就任式です。教会は、おとなはもちろん幼児から高校生まで、たくさんのこどもたち、兄弟姉妹たちにキリストを伝える使命を持っています。そしてそれは様々な機会を用いて伝え続けるのです。教会は教会学校を通してその働きを続けています。その実りが出るのがいつかはわかりません。また、わたしたちは人と神様の出会いが一様でないことも知っています。教会学校の先生方は、子どもたちを愛しその働きの中心になってくださいます。しかしそれは教会全体で担っていく働きです。共に使命と働きを共有し、その大変さも喜びも一緒に担って行きたいと思います。

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復活後第一主日

2007年4月15日 小山 茂(神学生)

「失望から希望へ」-エマオ途上にて-

ルカ福音書24:13-35

《一緒に歩まれるイエス》
 弟子たちは主イエスを希望の星として、大きな期待を込めて従ってきました。その大切な方が十字架にかけられ殺されてしまいました。主イエスの死は弟子たちにとり希望の挫折、そして絶望して彼らはばらばらになっていました。この二人の弟子もエルサレムから離れ、故郷のエマオへ帰るつもりで旅立ったのでしょう。彼らは道々この三日間にあったすべての出来事を振り返って話しています。ルカ福音書では復活された主イエスがここで初めて姿を現されます。主イエスがそっと寄り添って一緒に歩き始められ、会話に加わられます。でも二人の目は遮られていて、同伴者がどなたかになかなか気がつきません。
 主イエスは尋ねます、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか。」クレオパは咎(とが)めるように答えます、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」その出来事を知らないのはあなただけだと強い口調で言われても、主イエスは怯(ひる)むことなく問いかけます、「どんなことですか。」二人は言います「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを開放してくださると望みをかけていました。」二人の弟子がどれほど主イエスに望みを抱いていたのか、復活された主イエスに話した会話にその熱い思いが伺えます。でも今話しているその方こそ、主イエスであることに気づかずにいます。

《空の墓》
 次に二人の弟子は自分たちの絶望を伝えます、「しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻ってきました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」空っぽの墓という事実が見えても、キリストの復活という真実が見えてこない、二人の目が遮られていて先へいけないのです。空の墓という事実は主イエスの復活が弟子たちの真実とされまで、主イエスは今しばらく彼らに辛抱強く関わられます。
 この教会に始めてきた昨年夏、北尾先生に内部の案内をしていただきました。その折にこの聖卓の後ろ側にある空間は、「空の墓」をイメージされて造られていると伺いました。ガラスブロックから洩れる光と木質をいかした空間は、十字架から降ろされた主イエスの遺体がなくなり、復活された場とイメージされると教会講座にも書いてあります。聖書には「遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。」《ルカ23:53》とあります。イエスさまのお墓は洞窟のような岩穴でした。安息日が明けて女性たちが三日目の朝早く墓を訪れた時、入り口にあった大きな石が脇に転がしてあり光が差し込んでいたでしょう。この礼拝堂のガラスブロックから洩れる光は、主イエスの墓が空であると示す希望の光です。

《イエスの諭し》
 主イエスは一方的に語る二人の弟子の話に耳を傾けて聴かれます。相手の話をすべて聴き終わった主イエスは諭(さと)されます、「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」《25~26》そうです、今までに何度も主イエスは弟子たちに話されてきたことでした。聖書は死に至るまで父なる神に従順な主イエスを、神の栄光に引き上げられ主イエスを、預言しています。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」《24:7》と。でも、二人の弟子の目は遮られていて、主イエスが三日目に復活されたことが見えず、その方が主イエスと分からなかったのです。
 ここで主イエスは二人の弟子に切り札を示されます。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」《30~31》一昨夜主イエスのされた最後の晩餐を思い起こし、主が一緒におられると分かったその時、二人の弟子の目が開かれました。目的を果たされた主イエスの姿は二人の視界から見えなくなります。このように主イエスは二人の弟子に現われ、自分たちと共に主イエスがいらっしゃる、気づかされる信仰を与えられます。空の墓の事実から復活の主イエスの真実へ、遮られた目が開かれるには自分の力では超えられないのでしょう。二人の弟子はそれまで認められなかった復活の出来事を、自分たちの真実として受け取っていきます。私たちも弟子と同じように、自分の力では自分の目を開くことができず、復活の真実を認めるのは難しいのではないでしょうか。主イエスが共にいてくださるからこそ、信仰をあたえてくださるからこそ、その真実を受け入れていけるのです。

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復活祭

2007年4月8日 松岡俊一郎(牧師)

復活の主はどこに

出エジプト15:1-11  Iコリント15:21-28  ルカ24:1-12

 婦人たちは動揺を隠しきれませんでした。あるはずのものがない。それも絶対に自ら動くはずのないものがない。それがないとしたら、誰かが持ち去った以外には考えられないのです。十字架にかかり死なれたイエス様の墓は、大きな石で塞がれていたはずです。その石が脇に転がされているとすると、誰かが動かして、中の遺体を持ち去ったに違いないのです。イエス様が亡くなられたときは、ユダヤ教の安息日に入る時刻でした。安息日には働きが禁じられていました。そのためにイエス様は十分な処置ができずに葬られたのです。そのことが気がかりだった婦人たちは、安息日が空けた土曜日の日没には出かけることができず、その翌朝の日曜日の朝早くに、香料を持って墓に向かったのでした。ところが墓を塞いでいた大きな石は動かされ、イエス様の体はなくなっていたのです。彼女たちが途方にくれていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れたのです。遺体がなくなるというだけでショックな上に、普通ではない人が目の前に現れたのです。婦人たちはどんなにか恐れたことでしょう。

 恐れおののく婦人たちに二人の人は声をかけます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。ここにはおられない。復活なさったのだ。」印象的な言葉です。死んだはずの方を、生きておられる方というのですから。二人の人は、婦人たちの理解を助けるために、「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と促しました。婦人たちは、イエス様の言葉を思い出し、まだまだ半信半疑ではあったと思いますが、イエス様の復活を受け止めたのです。もはや墓にとどまる理由はありません。彼女たちは家に帰り、他の弟子たちに一部始終を知らせたのです。ところがイエス様のより近くにいた十一人の弟子たち、他の弟子たちはそれを信じることができませんでした。死んだ人が復活するなどとは、普通では考えられないからです。

 私たちの常識では、死んだ人が生き返ることはありません。これは私たちの絶対です。しかし、神様は人の絶対を覆されます。人の命が有限であるように、人の絶対は閉ざされています。しかし神様の絶対は永遠へと開かれています。人の絶対を信じることから、神様の絶対を信じることに転換すること、それが信仰であり、キリストのいのちをいただくことです。

 神様は御子イエス・キリストを十字架にかけることよって私たちの罪をゆるし、復活させることによって永遠のいのちを与えてくださいました。それは死なないいのちではなく、神様と深く結ばれる関係です。神様は人を愛するために創造されました。逆の言い方をすれば、人は神様に愛されるために生まれたのです。そんな私たちも神様を信じ愛することができるならば、これほどの幸せはありませんでした。しかし、私たちはそれを嫌うのです。神様に造られたものであることを良しとせず、神様を神様と認めず、自分が神様のなりたいのです。自分を中心に生きていきたいのです。ここに神様との関係の破れが生まれました。これを聖書は罪と呼びます。ここから様々な人の苦悩が生まれます。自分が中心であるということは、それだけ悩みや苦しみが多いのです。自分を中心に考えてしまう人の集まりには、自ずと葛藤や争いが生まれるのです。

 神様はそれをそのまま放置されません。すべての問題の源である神様と人との関係の破れの回復、そのために神様は、ご自分の独り子イエス・キリストを十字架にかけるという予想もしない仕方で私たちの罪をゆるしてくださるのです。人の罪をゆるすために、ご自分の独り子を十字架にかけるということは私たちの理解を超えていますが、私たちの神様に対する罪は、そのような方法でしか解決できないほど深かったのです。そして同時に、神様の私たちを愛する気持ちは、それほどまでに深かったのです。

 十字架によって死なれたイエス様は、三日目に復活されたのです。それは神様の絶対の表れです。人にとって避けることのできない、克服することのできない死に、勝利されるのです。この神様の絶対に信頼すること、そのことによって私たちもまた、死を絶対のものと恐れる必要がなく、永遠への歩みをゆるされるのです。その中心は、神様が人を愛された愛に生きることです。その愛を持って互いに愛し合うことです。そのような生き方こそが、神様との関係に生きることであり、人に最大の幸せをもたらすのです。

 使徒パウロは言います。キリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、そしてその復活のみ姿を弟子たちにあらわされたこと、この真実を伝えることが、聖書が大切に考えていることです。そして私たちの教会もこのために存在します。キリストの愛の教えをいただきながら、その教えに導かれ、祈りつついのちの歩みを求め続けたいと思います。

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枝の主日

2007年4月1日 松岡俊一郎(牧師)

石が叫ぶ

ゼカリヤ書9:9-10  フィリピ2:6-11  ルカ福音書19:28-48

 今日の福音書の日課は、イエス様がエルサレムに入られる場面です。私たちはこの聖書の箇所から、イエス様が大勢の人々に歓迎されながらエルサレムに入られるシーンをイメージします。しかし、想像するにその人数は決して多くはなかったと思います。なぜならば、もしそんなに大群衆であったならば、エルサレムを管轄していたローマの兵隊たちが黙っていたはずがないからです。兵隊たちは遠巻きに、それも見世物を見るかのように嘲笑気味に眺めていたでしょう。
 しかし、彼らは知りませんでした。主をほめたたえるこの歓声の意味を。ただ民衆が大騒ぎしているようにしか考えていませんでした。民衆もまた何も知らずに上げたこの歓声が、神様の救いを示していることは知りませんでした。そして、その救いは十字架という、人々からさげすまれる処刑によって成就することなど想像だにしなかったことでしょう。
 旧約聖書の日課は、エルサレムの救いの預言です。そこには救い主が子ろばに乗ってやってくることが預言されています。イエス様は、ご自分がエルサレムに入るということが、この預言の成就であることを強く意識されていました。
 神様は高ぶりを嫌われます。ゼカリヤの預言において、高ぶりは拒否されています。イエス様が子ろばを選ばれたのも、このためです。ろばは、民衆の間では日常に用いられるものでした。一方、馬は権力者が使用するものです。支配の象徴、力の象徴です。弱い人、苦悩している人、病いの人と共に過ごしてこられたイエス様には不似合いなものでした。イエス様は最初から最後まで、君臨するのではなく、傍らにおられるのです。
 パウロも使徒書の日課で述べています。「キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
 民衆が叫ぶ賛美の声に、ファリサイ派の人が、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言いました。しかし、その言葉に対してイエス様は「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と答えられました。この言葉をどのように受け止めればよいのでしょうか。
 岩や石は静寂と沈黙が支配する世界です。しかしそう考えるとかえって「石が叫びだす」という言葉の強さが伝わってきます。語るはずのないものが語り、叫ぶはずのないものが叫ぶのです。さらに言えば、救えるはずのないものが救い、救われるはずのないものが救われるのです。
 罪人として裁かれ、十字架という残忍な方法で殺されるイエス様。そしてそれはユダヤ人にとっては屈辱的なローマ式の処刑方法です。そのような仕方で死ぬイエス様が、どうして人を救うことが出来るのでしょうか。みすぼらしく子ろばにまたがっている人がどうして復活して死の勝利者となることが出来るのでしょうか。十字架は神様が決められた救いの方法です。私たちが期待する仕方、私たちが予想できる仕方ではなく、神様の強い愛の表れです。もはやそれは誰にも止められません。

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