説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2007年3月 ***

四旬節第三主日

2007年3月11日 小山 茂(神学生)

待ち望まれる主

出エジプト記3:1-15  Iコリント10:1-13  ルカ福音書13:1-9

《実の成らないいちじくの木》
 譬えに登場する、ある人とは神さま・ぶどう園の主人であり、園丁とは主イエス・キリストであり、いちじくの木は旧約の時代からイスラエル・神の民LAOSそして私たちへとつながります。ぶどう園に植えておいた「いちじくの木」を主人自らが、毎年その実が成っていないかと期待を込めて見に来られます。今年で三年目となるのに未だに実をつけない木に失望したのでしょう、「切り倒してしまえ、土が痩せるだけだから」と園丁に告げられます。園丁は主人に頼みます、「もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみますから。来年実を結べばそれでいいし、そうでなければ切ってください。」園丁の申し出を受け入れて、裁きの時を一年先に延ばされます。もう一度チャンスを与えられたいちじくの木、それは私たちに向けてさらに悔い改めの呼びかけをされている、と読めます。

《待ち望まれる主イエス》
 いちじくの木を植え形を整え剪定して、実がなるまでおよそ三年かかるそうです。主人は三年待ったとありますが、それは主イエスの公生涯の三年と一致します。三年間の宣教活動は民への悔い改めの呼びかけでしたが、主イエスの裁判に参加した大部分の民はそれに応えることなく、主イエスを十字架に送りました。それでも、主イエスは私たちが神とつなげられるよう決して諦めず、最後まで待ち望まれています。それは十字架上で交わされた御言葉からも分かります。隣にいた罪人の一人は「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」《23:42》と頼みます。主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」《43》と応えられます。死の直前に悔い改めた罪人を、「今日わたしと一緒に楽園にいる」と神の国に招かれます。御自分が死に引き渡される時に臨んでも、主イエスへの信仰を告白した者を受け入れられます。

 父である神さまから託されたこの世の救いのため、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」《46》と死の直前まで御心に適う者となられます。主イエスの招き迎える姿と呼びかけは、今も私たちに向けられています。主イエスは園丁となり、私たちのために神さまに執り成してくださいます。それは待ち望まれる主の姿そのものです。

《園丁の執り成し》
 主人は三年も実が成らなかったのだから、園丁に切り倒せと告げます。三年もの間毎年実を結ぶことを願って見に来ておられたのですから、切り倒せとの命令は止むを得ないかもしれません。応答する園丁の執り成しの言葉に注目してみましょう。新共同訳は「主よ、今年もそのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」《13:8~9》とあります。「そのままにする」と訳されていますギリシア語は、赦すと言う意味もあります。実際にそのように訳しているものがあります。塚本虎二は次のように訳しています。「ご主人様、今年もう一年だけ勘弁してやってください。今度は周りを掘って、肥料をやってみますから。それで来年実を結べばよし、それでもだめなら、切ってください。」また、文語訳でも同様に「主よ、今年も容したまへ、我その周囲を掘りて肥料せん。その後、実を結ばば善し、もし結ばずば切り倒したまへ。」塚本訳の「勘弁してやってください」、文語訳の「容したまへ」はいずれも赦すことに重きをおく言葉に、新共同訳よりさらに慈しまれる気持が表われ、より相応しいものになっています。

 主人の命令「切り倒せ」に園丁は一年猶予を頼み込みますが、「それでもだめなら、切り倒してください。」と答えます。園丁は恵みの肥料を施しますからとねばり強く頼み、最後の最後それでもだめなら、自分では切らないで主人に切ってくださいと願っています。主イエスは御自分で手を下して、いちじくの木を切り倒すには忍びないのでしょう。最後まで諦めずにどうしてもいちじくの木に実を結ばせたい、と主イエスの思いが伝わります。

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