説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2007年2月 ***

主の変容主日

2007年2月18日 松岡俊一郎(牧師)

イエス様だけがおられる

申命34:1-12  コリント二4:1-6  ルカ9:28-36

 イエス様は、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて祈るために山に登られます。するとイエス様の顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いたのです。この時、弟子たちは眠気を我慢しながら目を凝らして見ると、イエス様は二人の人物と話をしておられた。一人はモーセ、もう一人はエリヤです。この二人は旧約聖書を代表する指導者と預言者でしたから、彼らがイエス様から離れようとした時、ペトロはあわてて「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」と叫びました。自分が尊敬する先生と聖書の偉大な人が立ち並んでいる姿を見て、その光景のすばらしさのために何とか彼らを引き止めたいと思ったのかもしれません。そうこうするうちに雲が彼らを包み、雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が聞こえたのです。そしてそこにはイエス様だけがおられたのです。この雲の中からの声は、イエス様が神の子であることを神ご自身が宣言された言葉です。
 不思議なことがあります。もちろんイエス様の姿が変わったことや、死んだはずのモーセ、天に上げられたはずのエリヤが現れたこと、天から声があったこともそうですが、私が不思議に思うことは、イエス様の輝いた顔の様子や服が真っ白に輝いたあの事実が、その後どこかに行ってしまっていることです。さらに二人の人物はいなくなり、イエス様がただ一人残されているのです。イエス様が神の子と宣言されているのですから、その後も輝いたままでもよかったはずです。イエス様だけでなくモーセやエリヤがいたほうが、もっとイエス様の権威が明らかになったと思うし、むしろそのほうが弟子たちも、そして山から下りてこられたイエス様を目撃する民衆も感動し満足したはずです。しかしルカは彼らが雲に包まれた後、雲が晴れた後、何事も無かったように、普段の姿に戻られたイエス様がポツンとそこにおられたことだけを伝えているのです。いったいどうしてでしょうか。なぜイエス様の輝きはなくなったのでしょうか。
 ルカは、イエス様が突然現れたモーセとエリヤと共に「成し遂げようとしておられる最後について話していた」と言います。これは今日の冒頭の言葉「この話をしてから八日ほどたったとき」という言葉からも明らかであるように、日課のすぐ前の受難予告を指しています。つまり「最後のこと」とは、イエス様の十字架を指しているのです。そしてこの出来事の後、9章51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあるように、ここからイエス様の十字架に向かうエルサレムへの旅が始まるのです。
 イエス様が目指しておられるのは、ご自分の十字架の死です。それはイエス様が人としての姿を失うことです。ルカはイエス様の十字架を「栄光」と呼びますが、それは姿と輝きを失う栄光なのです。そして、失うことによる、失うことによって与える栄光です。預言者イザヤは53章でメシアの姿について、「見るべき面影はなく、輝かしい風格もなく、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病い、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」と言っています。イエス様は目に見える輝きではなく、十字架によってご自身をわたしたちに与えられることによってその栄光をあらわされるのです。
 旧約の日課である申命記34:1-12は、モーセが死んだ時のことを伝えています。モーセはユダヤの民を奴隷の地エジプトから約束の地カナンに導き出した民族の指導者です。そんな彼は約束の地を目前にしながらその地に入ることが神に許されず、死に、その墓は誰も知らないというのです。彼もまた偉大な指導者として自分が栄光を受けるのではなく、彼もまた自分は消えることによって神に栄光を帰していくのです。
 天から鳴り響いた声は「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と命じています。
 イエス様は律法の成就、預言者が語る救い主です。イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するのだ、と思ってはならない。廃止するためではなく完成するためである」と言われます。また福音書は、いたるところでイエス様の存在と言葉を「預言の成就」として伝えています。つまりイエス様は、モーセとエリヤとセットではなく、イエス様にすべてが込められ、現れているのです。ひとりにして十分なお方なのです。それでイエス様の目に見える輝きが消え、ただ一人残された理由がわかります。弟子たちにとってもわたしたちにとっても、目に見える輝きを失われたイエス様だけで十分なのです。目に見える輝きを失われたイエス様こそが、そしてすべてをわたしたちに与えられたイエス様こそが、わたしたちの栄光なのです。
 弟子たちはこの出来事をしばらく誰にも話しませんでした。しかしわたしたちは話しましょう。イエス様の救いと栄光は、十字架と復活によって実現しているからです。
 パウロは言います。「わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス。キリストを宣べ伝えています。………神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストのみ顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」

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