説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2007年1月 ***

主の洗礼主日

2007年1月14日 小山 茂(神学生)

イエスはどなた

イザヤ42:1-7  使徒言行10:34-38  ルカ福音3:15-22

《洗礼者ヨハネと主イエス》
 民衆はメシア(救い主)を待ち望んで、洗礼者ヨハネが救い主ではないかと期待していました。しかし彼はきっぱりと否定して自分はそのような者でないと、次のように言います。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」《ルカ3:16》ここで言われる履物のひもを解くとは奴隷の仕事であり、ヨハネは自ら退いて自分より優れた方がいらっしゃると、その方こそ真の救い主であると遠まわしに指し示しています。

《わたしの愛する子》
 主イエスの洗礼は、このお方がどなたであるかを明らかにします。ヨハネから主イエスは洗礼を授けられている時の出来事です。主イエスが祈っておられると、天が開けて聖霊がそこに居合わせた人たちに目に見える鳩のような姿で降りて来ます。聖霊が鳩のような姿をとって降りてくる、みなさんはどのようにイメージされますか?この場面を読む時、私は母教会の壁にあります「白い大きな鳩」のシンボルを思い浮かべます。それは聖卓後方の高い壁にあり下を向いて降る鳩で、両腕で抱えるほどの大きさの白いレリーフです。主イエスの祈りに対する神よりの応答、天からの声を主イエスだけが聴かれます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」《3:22》そのように神は独り子に、我最愛の息子として呼びかけられます。父なる神と神の子イエスとの親子関係が、はっきりと宣言されます。父が御子を愛している、父の御心に適っていると、御子のすべてを受け入れる御言葉は、御子にとりこれ以上の肯定的な働きかけはありません。それは、主イエスの存在理由であり、アイデンティティとなります。

《主イエスの従順》
 神が主イエスに直接語りかけることは、ルカ福音書のなかで他にほとんどありません。主イエスは御自分の使命を認め、父の御旨に従われます。神がその子イエスの従順を喜ばれます。どれほど従順であったか、ルカと他の二つの共観福音書マタイ・マルコを比べてみましょう。洗礼の場面ではいずれの福音書にも「あなた(これ)はわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とあります。しかし、主イエスが十字架につけられて最後に父である神に、大声で叫ばれたお言葉が違っています。マタイとマルコに記されたものは「わが神、わが神、なぜわたしをおみすてになられたのですか」《マタイ27:46、マルコ15:34》ですがルカにはありません。その代わりにルカだけに「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」《23:46》とあります。この違いはどこから来るものなのでしょうか?父である神に苦しみの叫びをあげられたと記すマタイとマルコ。それに対してあくまで従順に御旨に従われたと記すルカ。三つの福音書の中では、マルコ福音書が最初に書かれていましたので、ルカはそのことを知って書いていたのでしょう。それはルカが、主イエスをあくまで父である神の御旨に従われるため、あえて「なぜ見捨てたのか」の疑問を載せなかった、私にはそのように思えます。「わたしの心に適う者」と言う御言葉が、神に従順である主イエス像をルカは徹底して描いているのでしょう。主の御旨に従順であるとは、主イエスの生涯を通して、つまり十字架の時まで御旨に従われることなのです。

《油注がれた者》
 「イエス・キリスト」は私たちが聴きなれている主の名称ですが、ギリシア語では、イエスース・クリストスと読まれます。クリストスはヘブライ語の「メシア」を語源として、油注がれた者という意味があり、油注がれると王として立つ者とされます。日課である使徒言行録に、ペトロが主イエスの生涯を次のように述べています。「神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。」《使徒言行10:38》神から聖霊の働きにより、主イエスは油注がれた者とされます。それは福音の日課「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」《ルカ3:21~22》とつながります。神⇒聖霊⇒洗礼⇒油注がれた者⇒メシア(救い主)⇒キリストの流れが見えてきます。神が主イエスに授けられた〈聖霊による油注ぎ〉により、主イエスはイスラエルの王、メシアとされました。

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