説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2006年12月 ***

降誕後第一主日

2006年12月31日 小山 茂(神学生)

あなたの救いを見た

ルカによる福音2:25~40

《ヌンク・ディミティス》
 今日の聖書日課の朗読を聴かれて、何か聞き覚えのある所ではありませんでしょうか?29~32節はシメオンの讃歌と言われ、主日礼拝に派遣の部で歌われている『ヌンク・ディミティス』です。ラテン語の出だしの歌詞からそのように呼ばれていますが、日本語では「今こそ、去らせてくださいます」という意味です。その歌詞は大岡山教会の礼拝式文で一部読み替えていますが、毎週の礼拝で私たちは歌い、耳にしています。「ヌンク・ディミティス」のオリジナルの日本語訳は、次のようになっています。


1. 今私は 主の救いを見ました。
2. 主よ、あなたは 御言葉の通り、僕を安らかに去らせてくださいます。
3. この救いは、もろもろの民のために お備えになられたもの。
4. 異邦人[諸国民]の心を開く光、み民イスラエル[主に仕える民] の栄光です。

《シメオンの待ち望み》
 シメオンの讃歌が歌われる少し前の場面に戻って話を始めます。敬虔なヨセフとマリアは律法の定めにしたがい、長子の贖いのために、幼子イエスを連れてエルサレム神殿に上ります。その起源は旧約聖書の出エジプト記13章にあり、主がモーセに仰せになりました次の御言葉にあります。「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めて胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」《13:2》 ヨセフとマリアは幼子の身代わりに生贄を献げます。その30数年後に私たちの救いのため、主はその独り子イエスを生贄とされます。それは、贖われた者が、贖うための生贄とされるパラドクス《逆転》が起こされます。
 幼子イエスに出会うシメオンは、聖書で次のように出会いの紹介をされています。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが"霊"に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。」《2:25~27》 シメオンも敬虔な人で、イスラエルの慰め、つまり救い主イエスを待ち望んでいました。救い主に会うまでは死なないと聖霊からお告げを受け、それまでは彼自身決して死ねないと思っていました。彼の紹介に「聖霊」という単語が三度使われていることから分かりますように、彼の正しさは聖霊の働きに裏打ちされています。福音書記者ルカは、聖霊の導きが彼に神の御心を表すため、彼に留まっていたと記しています。

《シメオンの喜び》
 主イエスのために生贄を献げようと両親に連れて来られた時、やはりシメオンも神殿の境内に入って来ました。それは偶然の出会いではなく、聖霊の働きが設けた出会いでした。ルカはシメオンの歳について何も記していませんが、次の言葉から彼が年老いていたことを推測できます。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて次のように歌いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。」《29節》 「この去らせてくださいます」とは、その場から立ち去るという意味だけでなく、死んでこの世から去るとの意味もあります。彼は救い主が来られる時を待ち続けて、その到来を確認する役割を担っているので、それまでは彼は死ぬ訳にはいかないのです。だから、主イエスがその救い主であると知った今、自らが安らかに去ることができる、つまり安心して死ぬことができると、その訪れた幸を感謝しています。なぜならば、自分の両目があなたの救い〔救い主イエス〕を見て、喜びのうちに確認したからです。

《シメオンの腕にある救い主》
 シメオンは、自らの目で幼子を見て、自らの耳でその声を聴き、自らの鼻でその乳の香りを嗅ぎ、自らの腕で御子を抱き、主イエスの存在を体で感じ取っています。それが「あなたの救いを見た」という信仰の告白とされます。シメオンにとって幼子は、将来の成長が楽しみな子どもではなく、自分の今まで生きてきた生涯を引き受けてくださる方として、救いを確認させてくださる存在として、今わが腕の中にあります。もう何時死んでも惜しくないと、喜び幸せを噛みしめています。その喜びが神をほめたたえて、口からほとばしり出たものがこの讃歌になります。幼子イエスを体全部で感じる恵みを与えられたシメオンに、私など羨ましささえ感じてしまいます。
 シメオンが抱いた幼子イエスをイメージしていますと、鈴木浩先生が講義で受肉の説明を次のようにされたことを思い起こします。主イエスの受肉とは、神でありながら私たちの救いのために人と同じくされることですが、先生は主イエスが赤ちゃんとしてこの世に生まれるとは、ウンチもすればおしっこもされるということですと。こんな言い方をしてもいいのかと驚きながら伺いました。私たち人間と同様であるという実感がこもる説明に、主イエスをより身近な存在に思えました。
 生後40日の赤ちゃんであれば、お乳の臭いがしていたかもしれません、未だ首が据わっていないのでふにゃふにゃとされていたかもしれません。シメオンは、そのような赤ちゃんである主イエスを、その腕に抱いたわけです。赤ちゃんである主イエスが私たちのために、この世にお生まれになったと知った時、主イエスが私たちにより身近な存在と見えてきます。幼子に泊まる宿がなかった、飼い葉桶に寝かせられた、そのお方だからこそ、私たちと同じ低みに留まられて、救い主となられたのです。

《マリアへのメッセージ》
 シメオンは両親を祝福し、母マリアに主イエスの生涯を伝えます。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」《2:34~35》 シメオンは祝福するその口から一転して、イスラエルの民の平和ではなく、分裂をもたらすシンボルとして主イエスが定められていると言います。それは、神と人との関係が主イエスの登場により、疑いや反対の思いがはっきりと表れると。さらに彼はマリアに言います。主イエスがイスラエルの民の拒絶に会い、イスラエルが分裂する、その痛みをマリア自身が味わうであろうと。そして、愛する息子を失う痛みをも味わうであろうと暗示しています。

《あなたの救いを見た》
 このクリスマス物語の第六幕の結びは、幼子イエスを抱き神への讃美から、十字架の主イエスへとつながる道筋が見えてきます。この説教準備の黙想をしている時、クリスマス・シーズンになると憂鬱になると言われた、大阪でお会いしたある姉妹を思い出します。皆に幼子のことを伝える女預言者アンナのような方で、来月八十歳になられます。彼女は教会学校のクリスマス・メッセージで、旧約の創世記から始めて新約の幼子イエスの誕生、そして主イエスの十字架から復活まで一気に語るエネルギーを持つ方です。そのために小児説教の原稿を前もって準備され、そして暗記するほどの熱意をおもちです。お年を召してご病気をもっていますが、そんなことを感じさせない迫力で子どもたちに語りかけました。その女性がクリスマスになると、どうしてもイエスさまの十字架のことを思い起こし、"Merry Christmas"と声をかけられても心から喜べないと言われました。私はそのお気持ちを分かるような気がいたします。幼子イエスの御降誕を祝う時、主イエスの受難をも覚えるからです。もちろん主イエスの救いの成就は、十字架にかけられてよみがえり聖霊降臨により、初めて完成するものです。ですから、「あなたの救いを見た」とは、その救いの完成の先取りを、幼子イエスを抱いた時、確認したものでしょう。シメオンのマリアへの言葉は、そこまで見据えてされた時、その救いの確信が生まれてくると思います。シメオンは幼子イエスを抱いた時に「救いの確認」をし、主イエスの生涯を知って「救いの確信」を持ったのではないでしょうか。

《クリスマスの光》
 今日は十字架のステンドグラスを持ってきました。このステンドグラスの十字架が、その女性の言われた[幼子イエスの御降誕と主イエスの十字架の受難]を象徴していると思えたからです。八王子教会で実習した折に、ステンドグラス作家の信徒さんからいただいたものです。赤と緑のクリスマス・カラーの色ガラスにより作られ、その形は主イエスの十字架です。クリスマス・ツリーに常緑樹が用いられるのは、永遠の命をシンボルとしているからです。また、赤は主イエス・キリストが神と人との間をとりなすために流された十字架の血を象徴しています。このクリスマス・シーズン、私たちは幼子イエスのご降誕を祝っています。それと同時に、主イエスの十字架の痛みを裏で感じているのではないでしょうか。ステンドグラスは裏から光を当てられて、初めてその色ガラスの輝きが浮かび上がります。この十字架のステンドグラスは自ら輝くことができないのですが、裏から福音の光を射されて、初めて主イエス・キリストを指し示すことができます。まさに、シメオンの讃歌と御言葉は暗闇に射すクリスマスの光、主イエスの救いを私たちひとりひとりにはっきりと証ししています。それは、聖霊に導かれたシメオンが告白する、主イエスへの信仰でもあります。

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降誕祭礼拝

2006年12月24日 北尾一郎(牧師)

ゴッホ・ひまわり・義の太陽

■今日の聖書日課
 今年のクリスマスの礼拝は、先程朗読された三つの聖書日課によって行われます。

(1)イザヤ52:7-10

 「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。…地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ。」 クリスマスは、聖なる神が、暗闇の中にいる人類を救うために訪問された、という最高の「良い知らせ」・「福音」が、全世界に向けて告知される時です。

(2)ヘブライ1:1-9

 預言者イザヤをはじめ、「神はかつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によって、わたしたちに語られました」。実に御子は、「神の言(コトバ)」、「神語」なのです。

(3)ヨハネ1:1-14

 この「神の言」は、永遠の「初めに」、「すべての世に先立って父から生まれ」(ニケア信条)ました。それが、キリストの永遠の誕生です。ヨハネ福音書は言います-「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。…言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。…言は肉(人間)となって、わたしたちの間に宿られた。」

 ここにある多くの主題の中で、今日は「人間を照らすまことの光」を取り上げます。

■光を求めた人たち
 すべての人は光を求めているのかもしれません。しかし、特別に光を求めた人たちがいるように思います。その一人は、大岡山幼稚園の卒園生であるKさんです。彼は地域の子ども会の世話などをしておられ、多くの人々に慕われていました。今から8年前、会社に勤務していた彼は、突然脳内出血で倒れました。回復は順調でしたが、その後、治療の方法が見つかっていない難病であることが分かりました。ご家族と共に全力で闘いながら、リハビリに励んでおられました。その彼が、天に召されたことを聞いたのは、昨年の7月のことでした。ご家族の受けた痛手は、ますます強く感じられるようになっています。
 Kさんは、「ひまわり」が大変お好きだったと聞いています。ひまわりは、英語でサンフラワー(Sunflower) と言うように、まさに「太陽の花」です。花言葉は「あなたは素晴らしい」であるとされています。Kさんの太陽のような明るい笑顔を見るたびに、私は「あなたは素晴らしい」と言いたい思いでした。

■「ひまわり」はゴッホの"同義語"
 「ひまわり」と言えば、ひまわりと一心同体のようになった人物のことが思い出されます。オランダ生まれの余りにも著名な画家フィンセント・ファン・ゴッホです。現代アメリカのこれまた著名なカメラマン、デイヴィッド・ダグラス・ダンカンが、『ひまわり-ヴァン・ゴッホにささげる-』(1986 造型社)という写真集があることを教えていただきました。ダンカン自身もゴッホ同様ひまわりに恋をした人です。
 ゴッホは、1853年に生まれました。オランダのフロート・ズンデルトで生まれました。若い頃、教会の「説教者」のインターンとして、だれも行き手のない貧しい炭鉱地帯に自ら進んで行ったことがありました。集会に集う信徒たちの貧しさに心打たれ、自分も彼らと同じ生活をしたいと、背広を脱いで、夜はわらの寝床で寝るという生活を始めましたが、先輩や同僚には理解されなかったようです。ゴッホは、神は、不正直な裕福な者ではなく、貧しくても正直に生きている炭坑夫や農民と共におられると信じて、彼らの生活を描くとき、そこに神がおられる印として、十字架や明かりなどを描いていると言われます。
 そのゴッホは、1886年から87年にかけて、5点の「ひまわり」をパリで描きました。その一つは整った花束の中に描かれた「ひまわり」と、あとは、ひまわりの花の部分だけを描いたものです。1888年になって、ゴッホは南フランスのアルルに移り住みます。そこに「芸術家たちの修道院」として、「黄色い家」を建て、まずは、かのゴーギャンと共に生活します。ゴーギャンの部屋を明るくしようと、ゴッホは、4点の「ひまわり」を描きます。それは、かつてなかった新しいタイプの絵でありました。無造作に壷に投げ入れられた「ひまわり」です。
 ゴッホは、1888年12月24日、その家における生活に疲れたのでしょうか、自分の耳を切り取って、入院するという出来事が起こりました。そのあと、ゴーギャンは、2点の「ひまわり」を持って去って行きました。そのために退院したゴッホは、その2点を思い出して、ほとんど同じ作品を描いた結果、1889年1月に、3点の「ひまわり」が人類の財産となったのでした。

■黄色は天国につながる色
 ゴッホは、黄色をベースにした作品を多く描きましたが、弟テオに宛てた手紙の中で、次のように語っています。

「ところで、黄金を溶かすためには、充分加熱する必要があるように、この花のトーンは-だれにもいきなり出せるものではなく-人間全体のエネルギーと集中力を必要とするのだ。」

 今年の1月、青山学院で「牧会者、フィンセント・ファン・ゴッホの残した説教」と題して講演した野村祐之氏は、詩編119編19節(「この地では宿り人にすぎない私に、あなたの戒めを隠さないでください」)の説教を例にして、「ゴッホ自身が、彼方の天を目指す巡礼者であり、地上では苦しみや悲しみがあるが、苦しいがゆえに喜んで歩いて行こうと呼びかけている。」という趣旨の話をされたと新聞で読みました。
 野村氏は、「黄色は天国につながる色であり、天国、神の栄光を表す金色に最も近い色である。ゴッホが、神の国の先取りとなるような共同体の生活を、パリの批評家たちの間で疲れている画家たちと共に過ごしたいと願って建てた"修道院"も、「黄色い家」であった、と指摘しています。
 「人間全体のエネルギーと集中力」を注ぎ出して描かれた「ひまわり」は、ゴッホ一人の神への祈りの献げ物でありました。次の年、1890年7月29日に、37年の地上の生涯を閉じ、天のふるさとへと旅立ったのでした。不思議なことに、最初に申し上げたKさんのご命日も、7月29日なのです。Kさんは享年39歳でした。私は、Kさんを尊敬する者の一人として、彼が「ひまわり」のように「素晴らしい方」であった、と同時に、「ひまわり」のように東に昇る太陽にその全人格を向けていたのだと信じています。そして、ゴッホとKさんが「ひまわり」で結ばれているとともに、同じ命日を持っておられるのですから、その青春のエネルギーを集中して目指されたところは、「永遠のひまわり」の輝く、朽ちることのない天の世界なのではないかと心から思っています。そして、ご遺族の上に、慰めと平安を切に祈っています。

■"永遠のひまわり"は「義の太陽」
 旧約聖書の最後の章は、マラキ書3章です。その19節と20節をお読みします。

見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。
高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。
到来するその日は、と万軍の主は言われる。
彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。
その翼には、いやす力がある。
あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る。

 「ひまわり」を愛する人は、神の名を畏れ敬う人です。そのような人は、預言者の言う「義の太陽」を仰いでいるからです。預言者は、「義の太陽」として、全人類の救い主が来る、と預言したのです。その預言が実現した、という「良い知らせ」が、クリスマスの福音であります。
 ローマの冬至祭を、"換骨奪胎"して、12月25日にしたのは、西方教会でした。その聖書的根拠こそ、このマラキの「義の太陽」でした。実に、クリスマスにお生まれになった、いたいけな幼子こそ、その翼に魂をいやす力を持ち、暗闇の中にいる私たちを、「光の子」として迎えてくださる方であります。
 この方は、太陽が創造された時には、すでに神と共におられた、とヨハネ福音書は語ります。この方は、人類が出現する前から、人類を愛しておられた方であります。ですから、本来多様なものであるべき政治や文化や宗教などの違いは、互いに受け入れ合うべきものであって、互いを拒絶するための高い「壁」を築き上げるべきではありません。宇宙飛行士たちが言うように、地球上に「国境」などは描かれていないからです。「義の太陽」であるこの方にとっては、あらゆる差別は意味がありません。そうではありませんか。「義の太陽」である主イエス・キリストが、教えられたように、「天の父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせてくださる」からです。
 今、Kさんが愛し、ゴッホが全エネルギーを傾けて描いた黄色い「ひまわり」が、健気にも指し示しているのは、実にこの「義の太陽」であります。今日ここにおられる「あなた」の上に、「人間を照らすまことの光」「義の太陽」が昇りますように。

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クリスマス・イヴ特別礼拝

2006年12月24日 北尾一郎(牧師)

マリアの腕に抱かれて

ショートメッセージA(ルカ1:26-38)

■天使ガブリエルのメッセージ
 「神の男」という意味の名前を持つ大天使がいました。その名は「ガブリエル」、彼は、「神の前に立つ者」。いつ神が命令を出されても、直ちに出発できるように、神の前に立っているのです。このごろの言葉で言うと、「スタンバイ」しているわけです。しかし、ガブリエルに出動命令が下るのは、よほど重要な知らせを伝えるときに限られていました。
 今、その時が来ました。大天使ガブリエルは、最高に重要な知らせを伝えるようにという命令を受けて、神から遣わされました。彼はどこに派遣されたのでしょうか。王さまがいる大きな都でしょうか。そうではありません。紀元元年を迎えようとしていた当時のパレスティナでは、大きな都はエルサレムでした。しかし、ガブリエルが派遣されたのは、パレスティナの北部地方、ガリラヤの小さな町、「ナザレ」でした。この町の名前は、今年2006年のニュースにも登場しました。中東紛争の戦火に見舞われたのです。
 天使ガブリエルが派遣されたのは、ナザレの町に住むマリアというおとめのところでした。天使は、まず、あいさつの言葉を言いました-「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。それは最高級のあいさつです。見知らぬ人物の突然のあいさつに戸惑っているマリアに向かって、この天使は、神からのメッセージを忠実に伝えるのです-「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」。

■マリアの答え
 マリアは、今で言えば、高校生くらいのおとめです。その自分が赤ちゃんを産む、ということを聞いたとき、マリアの頭の中はまっしろになりました。要するに、理解できなかったのです。思わず、マリアは言いました-「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。
 すると、天使は答えます-「生まれる赤ちゃんは、聖なる者、神の子と呼ばれる。」 人類をその根本問題から解放する救いの計画を実現するために、神は御自身の力で、マリアを包み、マリアは神の子の母となる、というのです。その子の名前も、もう決まっていました。神が命名されたのです。それは「イエス」(ヘブライ語で「救い主」)という意味でした。この瞬間、今晩ここにいる私たちを含む「人類の救い」が実現するがどうかが、神に対するマリアの態度一つにかかっていたとも言えるのです。
 そして、驚くべきことに、マリアは天使に答えたのです-「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。マリアは、とにかくその赤ちゃんを産む決心をしました。その子のために自分を献げることを決断しました。こうして、その赤ちゃんは、マリアの腕に抱かれることになったのでした。

ショートメッセージB(ルカ2:1-7)

■紀元元年のベツレヘム
 「イエス誕生」の舞台に登場するのは、「聖家族」(ヨセフ、マリア、イエス)だけです。しかも、ステージからは、何の会話も聞こえません。それは、ドラマ様式ではなく、ニュース記事として描かれているからです。しかし、そこには、見えない脇役が存在します。それは、大ローマ帝国初代皇帝で、アウグストゥスという称号を持つ、オクタヴィアーヌスであります。
 皇帝の政治的意図があって、「住民登録」が実施されたと報じられています。民族政府の命令によってではなく、占領軍の軍靴の音が聞こえる中で、この調査は行われました。そこには、容赦ない強制力が働いていました。そのために、ヨセフは臨月の妊婦を伴って遠く"本籍地"までの旅をしなければなりませんでした。
 しかし、幾重にも重なった不条理こそ、「メシア」(救い主)はダビデの出身地・「ベツレヘム」から出るという旧約聖書の預言(ミカ書5章)を、実現させる契機として用いられたのだ、と福音書の編集者は語っているように思われます。
 実に、当時の「神の民イスラエル」は、何の希望も持てませんでした。しかし、そのような時にでも、神の御計画は、着々と進められていたのです。内外の権力者たちが何も知らない時に、しかも皇帝が権力を振り回す象徴的な場面で、「王の王」である「救い主」が、歴史の人となったのでした。

■2006年のベツレヘム
 2006年のクリスマスを迎えた今日も、5キロ四方ほどの小さなベツレヘムの町は、占領軍が築き上げた高さ8メートルの分離壁と柵と塹壕に取り囲まれているのです。今、日本福音ルーテル教会は、このベツレヘムの中にあるパレスティナ人キリスト者の教会と交流関係を持っています。
 「2006年前のベツレヘム」が、ローマ帝国の権力の下にあった世界の状況を代表していたように、「2006年のベツレヘム」も、世界全体の平和なき状況を象徴しています。今年も来年も、まずはベツレヘムの人々に真の平和が来ますように。
 この場面で、さらに衝撃的なことは、「宿屋には聖家族の泊まる場所がなかった」という事実です。それも住民登録のせいであったかもしれませんが、同時にそれは、私たち人類が、救い主の訪問を拒絶しているという根の深い現実を指し示しているとも言えるのであります。人間って哀しいものですね。文明は長足の発展を遂げていることも一つの事実ですが、人間の神に対する反逆、神の愛に対する消極的な態度は、いつの時代にも、変わることがないように思われます。
 あなたや私に今できることは、このような消極的な態度に組しないことであります。分離壁を築くことを止めることであります。「敵」を作ることを、極力避けることであります。心低くして、「飼い葉桶に寝かせられた幼子」の前にひざまづくことであります。あの赤ちゃんは、ベツレヘムに象徴される人間の苦悩をその身に引き受け、マリアは十字架につけられた御子を、その細腕に抱いているのです。

ショートメッセージC(ルカ2:8-14)

■なぜ羊飼いたちに
 クリスマスの記事で、最も人気があるのはこの場面だと思います。ここでは、心低き羊飼いたちが登場します。そして、そこに一人の「主の天使」が、まさに「主である神の御使い・メッセンジャ-」として人類史上最高最大のメッセージを報じるのです。「民全体に与えられる大きな喜び」のニュースが、都市・中央の人々にではなく、羊の群れが眠る草原で、リリースされるということは、このニュースの性格をよく物語っています。この喜びのニュース/「福音」は、自分だけが正しいと考える高慢な人々の耳には聞こえない内容をもっているからです。素朴に神の約束をただ信じていた羊飼いたちだからこそ、彼らの心の扉をいっぱいに開いて、天からのメッセージを聴き取ることができたのです。
 羊飼いたちが、もし自分だけが正義の側に立っていて、ほかの人々は悪の側にいると思い込んでいたならば、また、もし当時の政治状況の中で、暴力の行使をも容認する考え方を持っていたとすれば、天の大軍勢のコーラスの言葉を聴き取ることはできなかったにちがいありません。なぜなら、天からの讃美歌は、次のように歌われたからです。

いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心に適う人にあれ。

■その出来事を見ようではないか
 羊飼いたちは、そのニュースを聞いても行動しないような人たちではありませんでした。彼らは、取るものも取りあえず、早速「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合い、急いで行ったのでした。彼らがこのような行動をためらったとしたならば、このエピソードは、聖書の中に残らなかったでしょう。そうすれば、私たちは、「グロリア・イン・エクセルシス」という歌を歌うことはなかったにちがいありません。
 「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」という見えないポスターを掲げながらの探索が始まりました。そのポスターのおかげで、あまり時間はかからなかったのではないかと思います。羊飼いたちは、ついにその乳飲み子を探し当てました。「飼い葉桶」の傍には、マリアとヨセフがいたのです。羊飼いたちは、彼らにあいさつをし、なぜここに来たのかを説明しました。彼らの話は、「この世のものとも思えない」素晴らしい話でした。マリアもヨセフも「不思議に思った」と書かれています。
 しかし、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と報告されています。この報告は、30数年後に「飼い葉桶の赤ちゃん」が十字架と復活を経て天に昇られてから、いずれかの時点で、マリア自身が「心に納めていた」話を弟子たちに語ったものと思われます。
 敬愛する兄弟姉妹。今度はあなたの番です。マリアがその腕に抱いたこの乳飲み子を、今度は、あなたの優しいお心にしっかりと納めてくださいませんか。そして、この「救いの御子」の福音の話を毎週聴きに来てくださいませんか。あの羊飼いたちのように、あなたのためにお生れになったこの御子の声を聴いてくださいませんか。

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待降節第二主日

2006年12月10日 関口昌弘(信徒)

マラキの不安と託宣

マラキ書3:1-3  フィリピの信徒への手紙1:3-11  ルカによる福音書3:1-6

 「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように」
 本日のルカ福音書1章4節以下は、イザヤ書からの引用であることが書かれています。しかし、ペリコペの旧約聖書は、マラキ書です。何故マラキ書なのかと疑問が湧きました。これが本日の説教題へと導かれたきっかけです。
 マラキ(書):ハガイ(書)やゼカリヤ(書)は、神殿再建のあかつきには、イスラエルは栄光に満ち、土地も豊かな恵みをもたらすと約束をしていた。しかし、その印は現れないばかりか、相変わらずペルシャの支配に甘んじなければなならない。そのような中で、神殿再建がもたらした興奮は跡かたもなく消え、やり場のない失望だけが広がっていった。マラキは、このような時代に祭司や民の心を再び神へ立ち返らせようとしたのである。紀元前5世紀の前半、旧約聖書最後の預言者である。(マラキ(ヘブル語)マルアーキー:主の使者、私の使者の意)

1. マラキの不安・重荷・危機感
 マラキ書(馬拉基書)の意味・役割を明確に表現しているのは、文語訳聖書の1章1節だと思います。そしてマラキの不安は、正しい礼拝がなされていないこと、祭司が役割を果たしていないことなどです。

馬拉基書:1-1これマラキに托(より)てイスラエルに臨めるエホバの言葉の重荷なり。
新共同訳:1-1託宣。マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉。

(1) 1-6 正しい礼拝
 私が主人であるなら、わたしに対する畏れはどこにあるのかと万軍の主は言われる。
 わたしの司祭たちよ、あなたたちは言う、我々はどのようにして聖名を軽んじましたか、と。
(2) 2-2 祭司への警告
 もし、あなたたちがこれを聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら、と万軍の主は言われる。わたしはあなたたちに呪いを送り、祝福を呪いに変える。
(3) 3-2 審判の日の到来
 だが、彼が来る日に誰が身を支えうるか。彼が現れれときに誰が耐えうるか。

2. 今の時代
 今の時代は、マラキの時代と変わらず不安と重荷に押しつぶされそうな時代です。子どもの環境の悪化、老人を取り巻く環境の乱れ、中高年層も明るくはない。景気は良くなったといわれても実感はない。この国はどうなるのでしょう。
 今のルーテル教会は、どうでしょうか。私の立場からは、経済的な先行きは全く暗い。宣教の実は見えにくく統計数字は右肩下がりです。教会は何のためにあるのでしょう。これからこの時代と社会に対してどう役立つことができるのでしょうか。

3. 託宣
 託宣とは、神が人を通して、神の意志を伝えること。マラキの不安や危機感を越えたところで、神さまの意志が、マラキの預言として伝えられています。
(1) エリヤの再来として洗礼者ヨハネの預言。
 3-23 主の日(旧約聖書最後の言葉)
 見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
 彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。
(2) アドベントの預言
 3-1 あなたたちが待望している主は、突如その聖所に来られる。

4. 洗礼者ヨハネの力強さ
 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、イナゴと野蜜を食べ物としていた。
 マタイによるいでたちは野生に満ち迫力を感じる。「荒野で呼ぶ者の声」主の道をまっしぐらに走るすさまじさを感じます。その行動は、悔い改めの洗礼です。神殿礼拝とは対極にある新たな宣教を感じます。(ヨハネ1:19~28)
 今の時代ヨハネのような型破りな指導性・力強さ、しかし本質を見失わない明確な目的意識、これは大切な視点ではないでしょうか。私たちは、生きることの原点に返り、心から主を待ち望み、主のみことばを忠実に生きること、そのこと以外に世の救いはありえません。

5. パウロの祈り
 獄中のパウロは、フィリピ書(本日のテキスト1:9~)で祈ります。
 「9わたしはこう祈ります。知る力と見抜く力とを身に付けて、あなた方の愛がますます
 豊かになり、10本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、11イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることが出来るように。」
 「人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように」

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