説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2006年11月 ***

聖霊降臨後最終主日

2006年11月26日 小山 茂(神学生)

滅びない言葉

ダニエル書7:9-10  ヘブライ13:20-21  マルコ13:24-31

≪弟子たちの問い≫
 まずマルコの13章全体の流れを見てみます。主イエスから召命(召し)を受け最初に弟子にされた四人、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、そしてアンデレが登場します。弟子たちは神殿の素晴しさを口にしますが、主イエスは神殿の崩壊を予告されます。彼らは主イエスの言われた神殿崩壊の預言について、1.何時起きるのか? 2.どんな前兆となる徴があるのか?秘かに主イエスに尋ねます。しかし、主イエスは二つの問に直接答えられないで、混乱と迫害の時に弟子たちがどうすべきか教えられます。そして言われます、「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。」《13:7》騒がずに冷静になりなさいと話され、「世の終わり」という言葉から終末を暗示されます。

 問いの答えは13章説教の後半で語られます。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」《13:28~30》
そして、「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子(つまり主イエス)も知らない。父だけがご存知である。気をつけて目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」《13:32~33》

 パレスチナでは冬から夏へ一気に移るので、いちじくは裸の枝に力がみなぎるように葉を繁らせるそうです。いちじくは季節の変わり目をはっきりと徴として見せてくれます。主イエスに敵対する人たちが弟子たちを迫害する時、再臨される方が直ぐ近くに来られます。その時がいつ来るのか、天使も主イエスもその時を知らない、ご存知なのはただ神さまおひとりと答えられます。いつ終わりのときが来るか分からないから、眠らずに目を覚ましていなさいと言われます。いちじくの木の譬えから、主イエスの再臨が近づいていると、確信をもって待ち望みなさいと告げられます。

≪世の終わり≫
 私たちは「終末」と聞くと、何か悲観的に世の終わりであるかと考えてしまいます。ミケランジェロやルーベンスの描いた「最後の審判」の絵を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。最後の審判は天国と地獄が描かれ、怖いイメージを思い起こします。世の終わりに対して怖れることもまた大切なものではないでしょうか?私たちは怖れながらも、主イエスにつながる者とされ、再臨の恵みに与れるのです。

 ルターは卓上語録で次のように述べています、「最後の審判の日に私たちのために用意された大いなる栄光を見る時、私たちが信仰と愛に勇敢でなかったことに自らを蔑み、恥じ入るであろう。」私たちがどんなに信仰と愛に勇敢であったとしても、その独り子を私たちのために十字架に送られた神に、見合うものを持ち合わせていないことに気づかされるのでしょう。それでも、主の備えられた栄光を見る幸をいただけるのです。

≪主イエスの約束≫
 主イエスに連なる教会の人たちを支え、そして導く弟子たちに、告別の御言葉を委ねられます。主イエスに従ってきた四人は弟子のゆえに、すべての人から憎まれるようになると予告されます。それでも福音を宣べ伝えなさい。なぜなら四人の証しは聖霊があなたがたに代わって、あなたがたの口を通して語りますからと力付けられます。そして、最後まで耐え忍ぶ者は、救いの恵みに与ると約束されます。

 さらに、主イエスは言われます、「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」《13:30~31》滅びると訳されている言葉は、過ぎ去ると言う意味もあります。私はそちらの訳の方がいいのではないかと思いますので、そのように言い換えてみます。「アーメン。これら全てのことが起こるまで、この時代は過ぎ去ることはない。この時代は天と地と同様に過ぎ去るであろう。しかし、私の言葉は決して過ぎ去ることはないだろう。(私の言葉は、あなたに留まるであろう。)」この私の送別の言葉はあなたに永遠に留まる、主イエスの与えられた宝物として。主イエスの再臨は私たちへの恵みであり、私たちへの約束の成就としてあります。このことを、福音書記者マルコは13章でこだわったから、主イエスの説教を簡潔にせずにあえて長いままに記したのだと思います。

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聖霊降臨後第23主日

2006年11月12日 北尾一郎(牧師)

キリストの執り成し

申命記6:1-9  ヘブライ7:24-28  マルコ12:28-34

■キリストの御生涯の意味
 私たちの救い主、主イエス・キリストの公のご生涯は、数年間の「宣教活動」と、「死と復活」という二つの大きな側面を持っております。その「宣教活動」の内容は「神の国が近づいた」というメッセージでありますが、それは「教え」と「癒し」を伴っています。主イエスは、当時の社会のあらゆる層の人々に向かって教えられました。また、特に弟子たちを訓練するために多くの豊かな教えの言葉を語られました。そして、その教えのとおりに、主イエスは生き、また死にました。その方を父なる神は死者の中から復活させられたのです。

 「マルコ福音書」は、主イエスが、反対者たちとの論争・問答という機会を捕らえて、深い真理を教えられたことを証言します。この論争は「中風の人をいやす」という出来事から始まり、今日朗読された「最も重要な掟」に関する教えで終わります。
 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」◯ある律法学者が主イエスに投げかけたこの質問は、当時のすべてのユダヤ人が持っていた質問でした。そして、その正解も大体見当がついていました。同時代の高名な学者も、同じ質問に答えていたからです。その答えは、「シェーマー」というものでした。今日の第一の日課である、申命記6章の言葉です◯「聞け(シャーマー) 、イスラエルよ。我らの神、主(ヤハウェ)は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。(この言葉は偏狭な精神を表しているのではありません。これは、神と人間との関係が、真心・誠実でなければならない、という重要なメッセージです。「尽くす」-その意味で「完全な」ものでなければならないのです。一筋の道です。

■キリストは、常に生きていて、人々のために執り成しておられる
 けれども、あの質問に対する主イエスの回答には、ほかの教師の回答とは違う大切な特長があります。それは、「隣人を自分のように愛しなさい」というレビ記19章の言葉を、シューマーと深く関わるものとして、"一息で"言われる点にあります。神は、神と人間の関係人間同士の関係にコピーされることを求めておられるのです。
 主イエスは、この真心関係の教えを"地で行かれ"ました。その結果が十字架の死でありました。その死が彼自身の罪の結果ではなく、「主イエスの隣人」である私たちへの愛を貫かれたことの結果であることを示すために、父なる神は、御子イエスを復活させられたのであります。
 それでは、主イエスは今現在どこにおられるのでしょうか。聖書はいろいろな角度から語っています。まず、主は地上の空間に制限されてはおられない、ということです。次に、人間の住む地上を超越した「天」におられる、ということです。第三に、主イエスは「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」ということです。これは、マルコ福音書16章19節以下に書かれています。"宣教の現場"におられる、ということです。では、神の右の座につかれたキリストは何をしておられるのでしょうか。その答えは、今日の第二の日課にあります。ヘブライ書7章25節です!
 「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので・・・」。

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全聖徒主日・召天者記念礼拝

2006年11月5日 北尾一郎(牧師)

永遠の命につながる
-召天者を覚えて-

エゼキエル37:1-14  ローマ6:1-11  ヨハネ15:1-17

■ぶどうの木とその枝
 あなたは、どんな種類のぶどうがいちばん好きですか。私の場合は、全部好きです、と答えるでしょう。でも、一つだけ選ぶとすれば、「甲州ぶどう」でしょうか。めったに食べる機会はありませんでしたが、その姿と味は忘れることができません。
 さて、「聖書」の出来事は、パレスチナと呼ばれる地域が舞台になっています。この地方の三大農産物は、麦とオリーブとぶどうでありました。「オリーブ」は「神と人にほまれを与える」ものと考えられていました。そして、「ぶどう」は「神と人を 喜ばせる」ものとされていました。また、「ぶどう園」は、「神の民」を象徴するものでもありました。
 「ぶどう」は、蔓性の「木」とその「枝」からできています。その枝に「実」が実ります。よい実を結ばせるために、毎年「枝」の剪定が行われます。農夫は、実を結ばない枝を取り除き、投げ捨て、集め、火で焼いてしまいます。このような事実を題材にして、主イエス・キリストは、神さまとわたしたち、またキリストとわたしたちとの関係を説明されました。それが、ヨハネ福音書15章に書かれています。神は、農夫のように剪定をされます。実を結ばない枝を取り除かれます。私たちが取り除かれないためには、「枝」であるキリストにしっかりつながっていなければなりません。

■キリストの「愛」が与える「永遠の命」
 ところで、つながっている「枝」には、「木」から何が流れてくるのでしょうか。キリストは、御自分と父なる神との間をつなぐものは、「愛」であると言われます。また、キリストと弟子たちとをつなぐものも「愛」であると言われるのです。そうです、つながる枝に流れてくるものは、「愛」であります。そこに「喜び」が溢れます。主イエスは言われます◯「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。
 さらに、主は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語られます。しかも、その「友」とは弟子たちのことだ、というのです。12人の弟子たちだけではなく、弟子たちの証言の言葉によって、キリストを信じる人々は皆、「主イエスの友」であります。実にキリストは、私たちを「友」としてくださいました。しかも、友のために御自分の命を捨ててくださいました。十字架はその証拠です。(胸に十字架のペンダントをつけている人々には、ぜひそのことを知っていただく必要があります。十字架のシンボルがついているミッション・スクールの教師にも学生にも保護者にも地域の人々にも、ぜひそのことを知っていただかねばなりません)。

 キリストは、御自分の命を捨てて、私たちに永遠の命を与えてくださいました。キリストの命が、「枝」のようにキリストにつながる人に流れてくるのです。キリストの命は、「永遠の命」です。キリストにつながるなら、永遠の命につながるのです。

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