説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2006年10月 ***

宗教改革主日

2006年10月29日 北尾一郎(牧師)

今こそ、救いの言葉を

列王記下22:8-20  ガラテヤ5:1-6  ヨハネ2:13-22

■今日は、「宗教改革主日」です。「宗教改革」というのは、16世紀にドイツから始まり、キリスト教界全体に大きな影響を及ぼした運動のことであります。それは、世界史の方向にも関わっていますので、日本の学校の教科書にも出てくる出来事です。しかし、私たちが、宗教改革主日を教会の暦の中に入れているのは、単に歴史を振り返るためだけではありません。むしろ、マルティン・ルターを始め、この改革運動の指導者たちが意図したことを、今日の状況の中で改めて認識し、今日の改革を進めるためであります。言い換えると、「改革の系譜」の中に、私たち自身を位置づけるためであります。

■「改革の系譜」は、この日のために選ばれている三つの聖書箇所(ペリコペー)に示されています。その最初は列王記の下22章に記録されている「ヨシヤの宗教改革」です。今日はまず、この話から始めることにしましょう。紀元前7世紀の末葉、ユダ王国にヨシヤという王がおりました。彼が即位したの8歳でしたが、父と祖父の治世の状況は、あまりにも深刻な問題を含んでいました。それは、とどまるところを知らない「偶像礼拝」の問題でありました。そのことは、列王記下の21章に書かれています。偶像礼拝は、イスラエルをエジプトから解放し、約束の地に導かれた生きておられる神を忘れ、神の御心を蔑ろにし、神との契約関係の原点である「十戒」に集約されているモーセの精神から離れてしまうことを意味します。その行き着くところは神の民イスラエルが歴史の中から滅び去ってしますという危機でありました。

■この状況を何とかして打破しようとする運動が、ひそかに進められていたようです。それは、モーセの精神を回復し、出エジプトという神の民の歴史の原点に立ち返ることをめざす運動でした。その運動の担い手は、22章に挙げられている5人であり、宗教的・政治的な「ブレイン」とでもいうべきブループです。彼らは、王命による神殿の補修工事をチャンスとして捕らえ、新しい歴史認識に基づいてかねてから準備していた「律法の書」を王に提出したのです。これが、『申命記』であるといわれます。こうして、若いヨシヤ王の権威において、広範で徹底的な祭儀改革が実行されました。

■この申命記的改革は、モーセの十戒の精神の原点に帰ろうとする運動でした。実は主イエス・キリストのミッションも、人間の教えに優先する「神の掟」の精神を回復しようとする運動としての性格を持っています。さらに、使徒パウロの異邦人伝道と「信仰を通して受ける恵みによる救い」という「福音の神学」とは、モーセ・ヨシヤ・主イエスというラインにつながるのです。

■ルターによって始められた16世紀の「宗教改革」は、まさにこのパウロの福音の再発見であり、この改革の系譜に立つことでありました。「改革」は、「再生」でもありました。今、私立ちは、この改革の系譜をしっかりと見直すことによって、神のために、現代の日本と世界に仕えることができるのであります。それは、認識の重心を、人間から神に移すことです。精神的なコペルニクス的転回をすることであります。

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聖霊降臨後第20主日

2006年10月22日 小山 茂(神学生)

ひとつ欠けのある金持ち

マルコ福音書10:17~31

■金持ちの男の問い
 主イエスが出かけようとされている時、救いの確信のもてない男が駆け寄り跪いて尋ねます。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればいいでしょうか。」《10:17》彼は「善い先生」と呼びかけますが、主イエスは揚げ足を取られるかのように言われます。「神おひとりのほかに、善き者は誰もいない。」と主イエスは応えを直ぐにされないで、呼びかけの言葉にこだわられます。男は先生と呼びかけますので彼はおそらくユダヤ人であり、ユダヤ教の律法学者(ラビ)に対して遜るように言ったのでしょう。しかし、主イエスは敬称の呼びかけである「先生(ディダスカレ)」を拒絶されます。主イエスは御自分があくまで黒衣《歌舞伎などで役者を助ける黒い装束の後見人のようになられ》、あくまで神を前面に押し出される役割に徹しておられます。主イエスが指し示していらっしゃるお方は神おひとりであり、そのためには御自分はその影に隠れるようにされます。

■弟子として招く
 主イエスは神の愛アガペーの眼差しを向けられて言われます「あなたに欠けているものがひとつある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々にほどこしなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」自ら完全であると述べた男に、主イエスは頭から冷たい水を浴びせかけます。主イエスは男が金持ちであり、彼が持っているお金と財産のゆえに解き放たれずにいることを見抜かれます。そして、彼を貧しさに導かれ、弟子になりなさいと招かれます。私に従いなさいの意味の動詞は、ペトロとアンデレにかつて弟子の召命をされた言葉と同じです。マルコ1章の漁師を弟子にされた時、次ぎの御言葉を想い起こします。イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。《マルコ1:17~18》主イエスは男を見捨てて突き放されたのではなく、招き迎える言葉を口にされています。男は顔を曇らせ、悩み悲しみながら主イエスの許を去っていきます。主イエスは男が捨てきれないお金や財産の絆から切り離し、御自分の方に引き戻されようとされました。

■自分の力ではなく
 本日の聖書箇所の直ぐ前に、子どもを祝福する場面があります。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこ入ることはできない。」その子どもたちを、主イエスは抱き上げ、手を置いて祝福された。《10:14~16》
 福音書記者マルコは子どもたちと金持ちの男を対照的に描いています。子どもたちが神の国に真っ先に入れると言われ、反対に金持ちの男が神の国に入るのは何と難しいかと言われます。無力で自分の力だけでは生きられない子どもたちは、誰かに頼って生きていきます。主イエスは、自分の無力さを知って、神に信頼せよと言われます。神の国に入り永遠の命に与るには、それしかないのです。

■結び
 最後に子どもと金持ちの男を比べると、私たちに救いの前提条件がないと分かると思います。神の国と永遠の命は、私たちの努力で獲得していけるのではなく、主の恵みとして与えられます。神の前に私たちが如何に小さくて弱い者であるか知って、主により頼む者とされていく他ないのです。全てを捨てる時、全てを与えられます。私たちは捨てたものの百倍のものを受けると、後の世では永遠の命を受けると、主イエスから約束をいただいています。

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聖霊降臨後第19主日

2006年10月15日 北尾一郎(牧師)

家族と神さま

創世記2:18-24  ヘブライ2:5-9  マルコ10:1-16

■「家族」とは何か
 「家族」-それはいったい何でしょう。現代日本の若者の中には、結婚して「家族」を形成することに慎重な人々が多くいると言われています。また、求め合って結婚し苦労を共にして築き上げてきた「家族」を、惜し気もなく捨てようとする人々も多いということです。これは、「家族」というものの価値を見失っている人々が少なくないことを意味しています。このような現象は、日本の社会経済的な構造的変化が背景にある、と考えられていますし、おそらくそのとおりでありましょう。
 しかし、統計上の数字や世の中の風潮を無批判に受け入れるだけでいいのでしょうか。むしろ、今こそ、「家族」というものの本当の価値は何かということを深く考えてみるべきではないでしょうか。私たちそれぞれも、「家族」についてのさまざまな考えを持っているわけです。100人いれは、100通りの考え方があるにちがいありません。しかし、「家族」というものの本質を考えるためには、やはり『聖書』に聴くことが必要であります。それが"神学する"ということだと思います。

■神が「家族」を創造された
 聖書は、「家族」というものが、神によって創造されたのだと語っています。創造ということは、ただ「始める」ということではありません。「創造する」ということは、「意味を与える」・「価値を与える」ということです。その意味で、私たちが、結婚することも、出産することも、子育てをすることも、老人の介護をすることも、老後を生きるということも、家族に地上の別れを告げるということも、すべては創造の神から与えられた意味を持ち、神から与えられる価値を持つのであります。
 創世記の1章には、「神は御自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された」(1:27)と書かれています。そして、今日の日課である創世記2章には、「主なる神は言われた『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』という言葉があります。この二つの文章は、人間の本質を表現しています。つまり、人間というものは、「家族」を形成することによって存在し続けるものであり、そのために結婚や出産という使命が与えられている、ということです。個人個人の存在の仕方はさまざまであることが許されています。しかし、人間全体としては、このような存在様式と生物としての使命が与えられているということになります。ですから、結婚を創造されたのも神さまですし、子育てを支持されるのも神さまなのです。

■神が「家族」を祝福される
 今日の福音書は、主イエスが、結婚の意味を説き明かすために、創世記1、2章の言葉によって論証されたことを報告しています。「家族」の設計者は神御自身であると言われるのです。主イエスは、創造の神学をモーセの律法より上位に位置づけておられます。大人の「人々」が、「子どもたち」を 主イエスの前から追い出そうとしたとき、主イエスは、「家族」というものが子どもを含めて成立することを明らかにするために、子どもたちが主イエスのところに来ることを妨げてはならない、と言われ、抱き上げ、手を置いて、祝福されたのでした。今日の使徒書は、主イエスが天使ではなく人間になられたことの深い意味を述べています。しかも、この救い主は、いわば"神御自身の家族"の一員であり、「御子」であると語るのであります。

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聖霊降臨後第18主日

2006年10月8日 小島愛光(信徒)

小さい者の仲間
-互いに平和に過しなさい-

民11:24-30  ヤコブ4:13-5-8  マルコ9:38-50

■エルサレムへの道<死と復活の予告>
 マルコ福音書8章27節から10章52節までは「エルサレムへの道」という主題のもとに据えられています。エルサレムへの道に向けてイエスは弟子たちの先頭に立って十字架の贖いを目指して歩んで行く、すさまじい宣教の歩みを生き生きとマルコは描き出しています。しかもこの部分で注目しなければならないことはイエスご自身の死と復活の予告が3回にわたってなされていることです。弟子たちは誰一人、この受難と復活の予告が「自分を捨て、苦難のイエスに倣うこと」を理解し察知することは出来ませんでした。それは、それぞれの予告に対する弟子たちの行動でそのことは明らかです。こうした弟子たちの無理解と、自己中心的な反応から次第に彼らはイエスの弟子として、弟子たちは「自分を捨て、苦難のイエスに倣う者」とされて行きます。

■止めさせてはならない
 ヨハネはイエスに言います。「先生、わたしに従ってこない人が、お名前を使って・・・私たちに従わないので、やめさせまようとしました。」とイエスに報告します。ヨハネは自分の取った行動が人間的に見て正当で正しい判断をしたと思っていたのではないでしょうか。ヨハネにイエスは「よくやった」という言葉を期待していたのかもしれません。ここにも自分たちはイエスの弟子だというある種のエリート意識が芽生えていたのかもしれません。しかしイエスの答えは「やめさせてはならない」と言われます。「わたしの名を使って奇跡を行い・・・私たちの味方なのである」という答えでした。ヨハネの期待はくつがえされます。イエスの寛容で、開かれた姿勢がうかがえます。それとは対照的に弟子たちの狭い了見での判断に対してイエスは諭されます。第2回の受難告知のすぐ後での弟子たちの誰がいちばん偉いかと言う議論からも伺えるように、イエスの弟子だという特権意識をここにも見ることが出来ます。「私たちに逆らわない者は、私たちの味方である」といわれるイエスの言葉はこうした弟子たちの思いを打ち砕きます。敵だ味方だという単純な判断ではないのです。いや、敵も見方もないのです。仲間だと言われるのです。この時、激しく排他的な発言をしたヨハネも、イエスによって変えられて行きます。後にこのヨハネは愛の使徒と呼ばれるにふさわしい弟子となりました。

■主の民すべてが預言者になればよい(民11-29)
 神は70人の長老にモーセに授けられている霊の一部をとって授けられます。幕屋に集まった70人の上に霊がとどまりました。しかし、その霊が未だ幕屋に出かけずにイスラエルの民と一緒に宿営に留まっていた2人の長老にも霊が留まりました。これを見たモーセの従者ヨシュアはモーセに「わが主モーセよ、止めさせてください」と訴えます。モーセは彼に「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」といわれます。なんとすごい言葉でしょうか。弟子たちの思い、争いとはまったくかけ離れています。この言葉からキリスト者すべてが預言者になりなさい。「神の福音を伝える証し人になりなさい」といわれるのです。今日立たせていただいている、とるに足りないまずしい僕にも、又すべての会衆お一人お一人に呼びかけられています。

■罪への誘惑
 41節では「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」イエスの名のもとにある人は、みな仲間なのだと言われます。イエスはいつも敵の中にも味方を見ておられます。どんなに小さいことでも、イエスのみ名のためにすることは、神の目から、忘れられることは決してありません。それはイエスご自身にすることと同じだといわれます。
 42節の「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は・・」これらの小さな者を軽視するなら、その人は裁きを受けます。だから小さい者をつまずかせる者は手、足、目を切り捨てなさいといわれます。両手、両足、両目がそろって地獄に落ちるより、片方になっても神の国に入るほうがよいとおっしゃいます。主イエスは良いものも、悪いものも共に負ってくださいます。「共に」「仲間」ということが常にキリスト者に求められています。さらにどんな犠牲を払っても救いを成し遂げなければならないということではないでしょうか。ここで求められることは、弱い立場の人々への配慮と罪に対する断固とした態度が、十字架への道を歩まれるイエスにつき従うということです。

■互いに平和に過しなさい
 49節「火で塩味を付けられる」とはどう言う事でしょうか。キリストの苦難の十字架と迫害(火)の中での自己犠牲(献身)を意味するのだといわれます。(マルコ福音書研究鈴木浩著)第1回の受難と復活の予告の後で(8章34-35)「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」というイエスの言葉に通じています。
 「そして、互いに平和に過しなさい」というイエスの言葉で結ばれています。イエスは3回の受難と復活の予告の中での弟子たちの無理解と彼らの態度の中で、「誰がいちばん偉いか」「誰がいちばん良い席につけるか」といったつまらない論争をしていた弟子たちが、イエスによって変えられていったように、わたしたちも互いに仲間として、和解し連帯してイエスにしたがって共に歩むものとなってまいりましょう。
 教会の内も外も、立場の違う人達、小いさくされた者と痛みを共有する塩をもって、互いに平和をもたらすものとなってまいりたいと思います。  アーメン

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聖霊降臨後第17主日

2006年10月1日 北尾一郎(牧師)

人を受容し、神を受容せよ

エレミヤ11:18-20  ヤコブ4:1-10  マルコ9:30-37

■「受容する」
 「受容する」という言葉があります。言うのは易しいですが、行うのは難しいものです。これは、単なる「受身」とはちがって、自分の前に現われる人を、自分の意志によって受け入れる、という意味だと思います。聖書の原語であるギリシア語では、デコマイ(dechomai)という言葉があり、「親切に好意をもって受け入れる」というような意味で用いられています。
 昔、ユダヤは「アナトト」出身の預言者がおりました。エレミヤ書の記録によれば、エレミヤは控え目な性格の人でありましたが、神の召命を受けて「預言者」とされました。預言者は、自分の考えではなく、神の「御言葉」を語らなければなりません。ですから、エレミヤは語ります-「主はこう言われる。わたしはお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ」。すると、ユダヤの人々は言います-「それは無駄です、我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから」(18:11、12)。
 特にエレミヤの故郷であるアナトトの人々は、エレミヤの命をねらい、「主の名によって預言するな。我々の手にかかって死にたくなければ」(11:21) と言ったのです。今日の日課では、「木をその実の盛りに滅ぼし、生ける者の地から絶とう。彼の名が再び口にされることはない」(11:19) という表現になっています。
 エレミヤの故郷の人々は、エレミヤを受容しません。なぜ受容できないのでしょうか。一つには、エレミヤの言葉が過激だからです。もう一つには、人々が自分の思いと心を変えようとはしないからです。彼らはエレミヤを拒否し、神を拒否したのです。

■「だれがいちばん偉いか」
 主イエスは、三回もご自身の受難復活を予告されました。これは弟子たちの耳には理解しがたいほど過激な言葉でした。しかし、弟子たちもその時点では、自分たちの思いと心を変えることができなかったのです。御言葉を受容できなかったのです。その証拠に、彼らは受難の予告を聴いた次の瞬間、だれがいちばん偉いかを議論したのでした。主イエスの御言葉を受容できないということは、主イエスご自身を受容できないことを意味します。それでは、「弟子」とは言えなくなります。
 ですから、主イエスは、弟子の倫理を教えられます-「もし人が筆頭の者になりたいと思うならば(そのような考え方を止めて)、万人(バンジン)のしんがりに、万人の奉仕者になりなさい」。
 そして、主イエスは独特のサンプル教育の手法を用いて教えられました。サンプルは、一人の子どもでした。その子の手を取って弟子たちの真ん中に立たせ、抱き上げて言われたのです-「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方(=父なる神)を受け入れるのである」。

■人を受容し、神を受容せよ
 今、あなたは、主イエスの思いがお分かりになったのではないでしょうか。弱い立場にある一人の人を受容することは、神を受容することなのだ、と。

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