説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2006年9月 ***

聖霊降臨後第16主日

2006年9月24日 北尾一郎(牧師)

先生の顔を見つめる
-弟子道マニュアル-

イザヤ50:4-11  ヤコブ2:1-18  マルコ8:27-38

■時代が求めていたもの
 今日の礼拝の主題は、「弟子となる者の在り方」です。「武士道」というような表現に準えるならば、「弟子道」(Disxipleship)ということになります。
 ところで、今日の福音書は、今風に言えば、「イエスとはだれか」ということから始まっています。マルコ8章の日課に、主イエスが「フィリポ・カイサリア地方」に出かけられた、と書かれています。それは、主イエスの出身地である「ガリラヤ」の東に隣接する地域で、その中心地が「フィリポ・カイサリア」でありました。この地名そのものが、当時の国際政治の状況を示しています。つまり、かつてはおもにセム系の帝国によって支配されていたこの地域が、紀元前4世紀以降アーリア系のギリシア帝国に続いて、第1世紀当時もやはりアーリア系のローマ帝国によって支配されていたわけです。「フィリポ」(ギリシア語の人名=イドマヤ人であったヘロデ王家の支配者が敢えて持っていた国際的な響きを持つ名前)も、「カイサリア」(ラテン語の地名=皇帝の都市の意味)も、パレスチナが外国によって支配されているという状況を示しています。(旧満洲のことが思い出されます)。
 このような状況の中で、民衆が何よりも求めるのは、民族の独立です。それが国益に適っているかどうかの問題ではなく、民族としての誇りを持つ民衆が外国の圧政から解放されることを求めるのは、当然のことであります。「イエス」という人物についても、期待を込めた、いろいろなうわさがあったものと思われます。

■弟子たちの時代認識と自己認識
 主イエスは、この問題についての弟子たちの認識を明らかにするために、まず人々のうわさを報告させ、次に弟子たちの認識を問います。ペトロが答えます-「あなたはメシア(キリスト)です」と。この「メシア」という称号は、民衆が口にする場合はすぐれて「政治的解放者」を意味します。しかし、そのようなメシア像は、イザヤの預言(50章5-9節)にある、苦難に耐える「主の僕」というメシア像を持っておられた主ご自身の認識とは似て否なるものでした。
 問題は、弟子たちの認識でした。弟子たちが、"王イメージ"のメシア像を持っているか、それとも"僕忌め-ジ"のメシア像を認識しているかによって、弟子たちの「弟子像」そのものが、全く違ってくるからです。果たせるかな、弟子たちは、先生の思いを理解していなかったことが明らかになります。先生が、ご自分の死を予告されたとき、ペトロが先生をいさめたことによってであります。

■「弟子道」への招き
 「弟子」は、そもそも「先生」あっての存在です。ペトロたちの「先生」ご自身も「主の僕」であり、「弟子」でありました。イザヤ書50章4節にあるとおりです。
また、イザヤ書50章10節には、この「主の僕の声に聴き従う者」という表現がありますが、これこそまさに主イエスが教えられた「弟子道」に一致するものです。
 「弟子道」は、"マニュアル"のようなものによってではなく、「先生」であり、先生を超えた方の顔を見つめながら、生涯かけて学び、まねび、身につけるものです。

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聖霊降臨後第14主日

2006年9月10日 小山 茂(神学生)

パン屑はいただきます。
-異邦の女の信仰-

マルコによる福音書7:24~30

■主イエスと異邦の女
 主イエスは宣教活動の舞台であるガリラヤから退き、地中海に面したティルスという地方にやって来られます。そこは、ガリラヤ湖の北西60キロも離れた異邦人の都市でした。人知れず一人静かな時を過ごしたいと思われたのでしょう。しかし、主イエスが行なわれたさまざまな癒しの業はここでも知られていて、期待された安息の時とはなりませんでした。ユダヤ人ではないギリシア人であり、異なる信仰をもっている女性が、娘の癒しを願って主イエスの前に現れたからです。彼女は娘に取り付いた悪霊を追い出すために、できることはみな行ってきたことでしょう。主イエスの癒しの話しを聞きつけて、藁にもすがる思いで主の足もとにひれ伏しています。そして娘から悪霊を追い出してくださいと、必死に頼む母親の姿があります。福音書記者マルコにより、主イエスとその女性との会話が、ここから始まります。

イエス :
 まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパを取って、小犬にやってはいけない。
女:
 主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。
イエス:
 それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。

 福音書記者マルコは、やはり簡潔に語ります。必要かつ最小限の会話のみ記して、十分と考えています。譬えにでてくる代名詞の意味をはじめに確認しておきましょう。子供たちはユダヤ人を、子犬は異邦人を、パンは救いを指しています。
 主イエスと異邦の女性の会話を通して、イスラエルと異邦人の関係をどのように理解されているか分かります。神の約束は選ばれたユダヤ人である神の民になされ、神の栄光は彼らを通して始められました。主イエスは神の独り子であり、神の御業の中に御自身が組み込まれています。ですから、主イエスは語ります、「まずはじめに、子供たちに腹いっぱい食べさせなければなりません。子供たちに分けられたパンを取って、小犬にやってはいけません。」という主イエスのみことばに、特に不自然さを感じさせません。しかし、異邦の女性は応答します。「救い主よ、食卓の下にいる小犬も、子供たちがこぼしたパン屑はいただきます。」つまり、子供がこぼしたパン屑を食卓の下にいる犬にも食べることが許されている、それは誰もが納得せざるを得ないもので否定できません。ここに彼女の実に見事な機知が示されています。主イエスのみことばを否定せずに逆手に取りながら、自らの願いを認めさせるユーモアさえあります。主イエスは一本取られたといった感じをもたれたのではないでしょうか。そして、おそらく喜んで御自分の負けを、「それほど言うなら、よろしい。」と認められます。
 どうしてこれほど見事な応答を女性はできたのか、私には不思議でさえあります。それも主イエスに対してです。主イエスとこれほど素晴しい会話をした女性がいたでしょうか。もちろん、娘に取り憑いた悪霊を追い出したいとの必死の願いが、母親である彼女自身を強くしています。それまで悪霊祓いのためにあらゆることをしてきたのでしょう、それでも願いは叶わなかったのです。でも今度は違います、さまざまな癒しの出来事をされた主イエスのことを聞きつけて、今その方の前にひれ伏しているのです。女性が一歩も引き下がらない粘り強さ、しかし機知にあふれる言葉を口にする確信、そして主イエスへの信頼があります。ガリラヤ地方でユダヤ人に起きた出来事が、この地で自分の娘にも起きてほしいという希望、いや起きないはずは無いという確信、そして祈願となり、主イエスが女性の信頼に動かされ、女性は救いの恵みに与ります。

■パン屑=救いの恵み
 パン屑の話から、6章にあります「5千人に食べ物を与える」話とのつながりを思い起こします。五つのパンと二匹の魚を群衆に配り、パン屑と魚の残りを集めると十二の籠に一杯になったとありました。それは、救いの恵みがユダヤ人群衆に十分いきわたり、それでも余ったということです。本日の聖書箇所は、ユダヤ人に与えられた救いの恵み、そのおこぼれを異邦人にも与える話と読めませんでしょうか。異邦人への恵みは、ここでパン屑として与えられます。主イエスは救いの賜物を、それをもっている神の民から取り上げ、もっていない他の民に与えることはできないと言われます。しかし、27節「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」のまずは、その次はという含みを、もたせているのではないでしょうか。救いの賜物に優先順位があるとすれば、まず神の民に、その次に異邦人にと言われているように読めます。パン屑はおこぼれではなく、きちんと異邦人にも用意されています。

■与えられる信仰
 私は以前願いが叶えられるために、信じるとは不純なものではないかと思っていました。それは目的を達成するために、手段のひとつになる恐れがあるからです。また願いが叶えられないなら、信じないのかと逆の見方もあります。この異邦の女性の場合は、どうなのでしょうか?彼女はイエスさまに出会うまで、さまざまな試みを娘のためにしてきたと思われます。でもそれまでの願いは叶えられませんでした。そして、今度こそという強い期待と希望をもって、主イエスの前に現れたのでしょう。ただ、今までと違っていました。それは、ただ願うだけではなく、イエスさまを救い主として崇めています。初めに主よという呼びかけにより、イエスさまがどなたであるか、救い主であると明確に告白しています。ここまで聖書を読み進めてきた私たちには、主イエスがどなたであるか弟子たちの認識の揺れを知っていますので、異邦の女性と弟子たちの認識の違いは際立って映ります。そしてイエスさまの足もとにひれ伏して、女性は言います、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」彼女はここでパン屑をいただかなければ、次はもう無いのです、この方こそ信頼するに足る方、この方をおいて他にはないのです。それが彼女の確信となり、主イエスに対して見事な受け答えとなっています。主イエスは言われます、「それほど言うなら、よろしい。」と彼女の信頼が真のものであると認められます。彼女にとりもう他の可能性はなく、必死の祈願が聞き届けられます、そこに私たちの思いを超えた出来事が起きます。つまり、あれもあるこれもある選択肢の中から、女性が選んだものではないのです。女性に備えられたものはこれしかないのです。彼女の痛みに共感された主イエスが、女性の信頼を主から与えられる信仰へと変えられ、救いの恵みを与えられます。

■境界線を越えて
 この女性は自分の子供への愛情をもとにして、主イエスの前にひれ伏し必死の願いを訴えます。主イエスは「五千人に食べ物を与えられた」時と同じように、困窮の中にいる女性を招き迎えられます。両方の状況を比べてみますと、五千人とひとりイスラエルの民と異邦人人数に数えられる男性と数えられない女性。これらの状況を考えるならば、異邦の女性がユダヤ人の教師に近づくことだけでも、実は容易なことではないことが分かると思います。マタイ福音書の平行箇所では、弟子たちは主イエスに「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」《15:23》とまで言っています。女性は宗教を超えて、民族を超えて、性別をさえ超えて、主イエスの前にたった一人で登場したのです。私が同じ立場にいても、とてもできることではありません。だからこそ彼女の渇望に、主イエスは深く憐れまれて動かされました。
 このギリシア人でシリア・フェニキア生まれの女性は、私たちと関係がないわけではありません。なぜなら、私たちもユダヤ人ではなく、異邦人であるからです。そのように聖書を読みますと、他人事でいられなくなります。私たちが第三者でなく当事者として、みことばを聞く立場にいることに気づかされます。彼女への救いの恵みの先取りは、私たちにとってもやはり救いの恵みとなります。主イエスの御心はこの女性からその先を見通され、神の国が大きく育つように、その眼差しは私たちに向けられています。主イエス・キリストが十字架にかけられたことを通して、私たちの救いが備えられています。異邦人へ拡げられた主イエスの救いの恵みを、この礼拝を通して受け取り、味わってまいりましょう。

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