説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2006年8月 ***

聖霊降臨後第12主日

2006年8月27日 北尾一郎(牧師)

逆風の湖上で出会う
-イエスが船に乗り込まれると、風が静まった-

マルコ福音書6:45-52

 私たちの「心」は、二つの世界の間を生きているように思われます。それは、「平安」と「不安」という二つの世界です。地球には、「おか」と「うみ」という二つの世界があるのと同じです。
さらに言えば、「うみ」に出る時には「移動するおか」(モバイル・ランド)としての「」に乗ります。しかし、舟は、「うみ」の上では、「平安」な時もありますが、突然の逆風に見舞われて、「漕ぎ悩む」ことが少なくありません。

 新約聖書には、そのような情景が何回も描かれています。マルコ福音書6章の45~52節も、まさにそのような場面です。主イエスは祈るために「おか」におられましたが、弟子たちは、主イエスに命じられて、向こう岸へ行くために、「うみ」にいました。もちろん、舟の上でした。しかし、果たせるかな、突然の逆風に「漕ぎ悩んで」いました。
 まさに、その逆風の湖上で、弟子たちは、またとない経験をしました。あの方に出会ったのです。恐ろしかったのは、嵐だけではありませんでした。湖の上を歩いてくる「幽霊」を見てしまったのです。弟子たちは、震え上がりました。
 その時です。懐かしいあの声が聞こえたではありませんか。確かにあの方は語り、弟子たちは、その声を聴きました-
 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。
 弟子たちの「不安」は、その御声を聴くことによって静まり、「平安」が回復されました。平安になったから、あの方の声が聞こえたのではなく、あの方の声を「聴いた」から平安になったのです。

 福音書は語ります-「イエスが舟に乗り込まれると、風は静まった。」 私たちは、「平安」になったら、主イエスを心に迎えようとしているのではないでしょうか。そうであってはいけない、ということを、この出来事から学ぶことができます。主を私たちの「舟」に迎える時、「平安」が支配するのです。

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聖霊降臨後第11主日

2006年8月20日 小山 茂(神学生)

飼い主のいない羊
-はらわたを突き動かされる痛み-

マルコ福音書6:30-44

《主イエスの痛み》
 遣わされた弟子たちは食事をする暇もないほど忙しく、主イエスのもとに戻ってきます。弟子たちは大勢の人々を相手に、一日中癒しや教えをしてきたからです。主イエスは彼らに休息の時を与えたいと、人里はなれた静かな所へ舟で一緒に移動されます。それでも群集は、主イエスと弟子たちを先回りして待っています。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」〔34節〕羊は臆病で敵から身を守る術を知らない迷いやすい家畜ですから、その群れを導く羊飼いが欠かせません。主イエスは羊飼いのいない羊の群れをご覧になります。それは困窮の中にいるのに誰も指導者がいない人々の群れであり、主イエスはその群衆を見てはらわたを突き動かされる痛みを感じられます。新共同訳では「深く憐れみ」、岩波訳では「腸のちぎれる想いに駆られた」とあります。私たちは耐えられないほどの悲しみや苦しみを感じる時、「断腸の思い」と言う言葉を使いますが、はらわたがちぎれるほどの痛みとは旧約聖書的な表現と言えます。最近カトリックの本田哲郎神父の著作「釜が崎と福音」という本を読み、次の言葉に示唆を受けました。「わたしたちは苦しむ人の痛みを知るとき、ひとりの人間として心動かされます。・・・しかし、人は知識や建前だけでは、なかなか行動に移れるものではありません。わたしたちを行動に踏み切らせてくれるのは、『はらわたを突き動かされる』痛みの共感です。イエスはこのことを身をもって明らかにしています。」本日の聖書箇所の視点から、主イエスの深い痛みを通して、飼い主のいない大勢の人たちを招き迎える出来事が始まります。主イエスご自身が彼らの飼い主となられ、同じ低みに立たれ、いろいろと教え始められるからです。

《多い少ないを超えた共食》
 弟子たちは腹を空かせた群衆を見て、「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べ物を買いに行くでしょう。」〔36節〕と、主イエスに進言します。ここで、両者の間に食い違いが起こります。主イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と答えられると、弟子たちは「わたしたちが200デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。〔37節〕主イエスはかつて弟子たちを派遣する時、金を持たずに行けと言われていたので、200日分の日当に当る大金を持ち合わせているはずはありません。弟子たちが持っていたのは五つのパンと二匹の魚です。弟子たちは、それだけで大勢にいき渡るはずはないと考えています。弟子たちにとっては、それだけしかない。主イエスにとっては、それだけある。パンや魚の数や量の問題ではありません。主イエスのされてきた出来事を振り返れば、弟子たちの常識を超えたことが何度もあったのに、彼らは自分たちの枠の内に留まります。主イエスの指示のとおりに弟子たちは事を進めていく中で、出来事が完成されていきます。体にも魂にも必要とされるものは全て主イエスのもとにあり、最期に集めてみれば食べ残しは12の籠に一杯と成ります。気が付くと飼い主のいない群れは、イエスさまという飼い主をとおして、神の慈しみと恵みを与えられています。神のなさる奇跡は、主イエスに信頼して切実に請い求める人たちのためにこそあります。

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聖霊降臨後第10主日

2006年8月13日 管野義隆(信徒)

主イエスと共に歩きましょう
-主の励ましと教え-

マルコ6:6b-13  アモス書7:10-15  エフェソ1:3-14

 主イエスは弟子として十二人を選び、自分の傍におかれました。そして、使徒と名付け宣教に派遣し、悪霊を追い出す権能を持たせ、ご自分と一緒に働くよう導かれました。
 今日の福音書の日課は、この十二人が、主のみ旨を宣べ伝えるため、派遣されたことがしるされています。十二弟子の派遣は、主イエスの人々への愛によるものでした。人々の救いのため、主が導いておられた弟子たちを、同労者として遣わされたのでした。そして神からのみ旨を伝えるため、出掛けるおりに、実行し、守るべきことを教えられました。
 その働きの大切な目的は、人間の罪と、その罪を恕し、罪から開放して下さる神の恵みを知り、悔い改めるように宣べ伝えることと、病いの人々から悪霊を神の霊の力によって追い出して病いを癒し、「神の国の救い」を教え、ひろめることでした。
 先ず、その方法として、二人づつ組にして遣わすこととされました。互いに助け合いつつ、共におられる主の深いご配慮を確認しあいながら、主の愛と恵みを宣べ知らせ、恵みに反する汚れた霊には、協力して対応する権能と力を授けられました。
 又、旅には杖一本を持ち、履物を履くだけで、パンなどの食べ物、物を入れる袋、金も一切持たず、下着は二枚着ないよう命じられました。肉体を支えるものなどはみな、主が与えてくださるものによりたのみ、己の思いのみを満足させるものには、一切頼ってはならないと教えられました。そして、主を信じ、二人を迎え入れてくれる家があったら、主にある信頼のうちに、その土地を出るまでその家にとどまるように、しかし、二人を受け入れず、主のみ旨を伝える恵みに、耳を傾けようともしないところがあったら、足の埃を払い落として、その土地の人々への「神の裁きの証し」としてそれをしめし、人々の悔い改めを祈るようにと教えられました。

 旧約日課アモス書で、南ユダ出身のアモスが、貧富の差の増大するイスラエルにおいて富める少数者に罪があると断定し、ヤロブアム王の死を預言しました。祭祀アマツヤから「ここは、王の聖所で王国の神殿だから、二度とここで預言するな」と告げられたとき、「主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り預言するよう言われた」と答え神を信じ、よりたのみ堂々と預言しました。十二弟子もまた、己の身分境遇がどうあろうとも神の力と恵みによりたのみ、み旨を宣べ伝えるように主イエスから教えられました。

 わたしたちも、主からの恵みと賜物を大切に、いつも主にある御助けを信じつつ、主と共にみ旨を宣べ伝えてゆけますよう、ご一緒に祈り、歩んでまいりましょう。アーメン

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