説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2006年7月 ***

聖霊降臨後第6主日

2006年7月16日 北尾一郎(牧師)

育てるのは神

エゼキエル17:22-24  2コリント6:1-18  マルコ4:26-34

■「レバノン杉の移植」のたとえ
 「レバノン杉」(香柏)は、レバノン山脈の高度1500~1900mのところに生えていて、日本の檜のように香り高い建材として、エジプトやメソポタミアの王たちがこれを求めて遠征しました。ソロモン王もエルサレムの神殿にレバノン杉を用いました。
 預言者エゼキエルは、紀元前6世紀に神の民イスラエル民族を代表するユダ南ユダ王国が、バビロニア帝国によって滅ぼされ、王国最後の若き王がバビロンに連行された、あの苦難に満ちた時代に、イスラエルの神による「救い」を捕囚の民に向かって語り続けました。
 エゼキエルは語ります-「レバノン杉の梢を切り取って、その柔らかな新芽を啄ばみ、イスラエルの高い山に植え込む」。しかし、この時代、エルサレムは、度重なるバビロニア帝国の侵略によって、荒れ果てていました。レバノン杉の若枝を植える、というのは、バビロンに連行されたユダの人々を回復されるということを象徴しています。それは、異国の丘に囚われていた人々にとっては、信じられないことでした。
 そこで、エゼキエルは、「たとえ」をもって、語るのです-「レバノン杉の梢を切り取って、その柔らかな新芽を啄ばみ、イスラエルの高い山に植え込む。そうすれば、それは枝を伸ばし、実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となるであろう。その下にはあらゆる小鳥が宿り、翼を持つものはすべてその枝の陰に宿るようになる」。
 エゼキエルは言います-「神は、高い木を低くし、低い木を高くし、生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせる。これは神ご自身が語られたことで、神はその通り実行される」と。神は、歴史を支配しておられるのだ、と言うのです。

■「成長する種」のたとえ二部作
 エゼキエルの「たとえ」は、約600年の時を経て、主イエスの言葉に反響しました。主イエスは、「種は、自ら成長するものだ」というたとえによって、主イエスがまさに着手されたばかりの「神の国」が、たとい今は小さなものであっても、神のなさることであるから、必ず実現に至る、という確信を披瀝されました。
 それは、蒔かれた麦の種が、種を蒔いた人が寝起きしているうちに、自動的に成長し、実を結ぶようになるのと同じである。また、種のなかで、地上のどんな種よりも小さいからし種が、成長すると、「どんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」と言うのです。
 特に、第一のたとえは、「ひとりでに」実を結ばせる、という表現は、ギリシア語原文では、automateeであり、「自動的に」(オートマティッカリー)という意味になります。言い換えれば、「人の手によらずに、神の御手によって」ということであります。
 使徒パウロも、コリントの教会に宛てた手紙の中で、自分は、キリストの十字架を通して、人類をご自身に和解させるという驚くべきことをされた「神の協力者」であると言っています。「救いの日に、わたしはあなたを助けた」とイザヤが語ったが、今こそ救いの日である!」と、パウロはここにいる私たちに迫っているのです。

最新の説教集へ

聖霊降臨後第4主日

2006年7月2日 池谷考史(神学生)

讃美唱:詩編81編
説教題:主の「思いがけない言葉」

イザヤ58:11-14  2コリント5:1-10  マルコ3:1-12

詩人の讃美
 「わたしたちの力の神に向かって喜び歌い ヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ」。この詩編の冒頭で、詩人は盛んに主への讃美をせよといいます。この詩人がこれほどまでに主を讃美せよという理由は、単にそうするべきだからということではなく、6節にある、詩人が主からの思いがけない言葉を聞いたためにどうしても讃美せざるを得なくなったからなのです。詩人にとって思いがけない言葉とは、どのようなものだったのでしょうか。それは一方では、掟を破ったイスラエルの人々への神の罰、もう一方では敵の手に渡されたイスラエルの人々の救いの言葉でもありました。

イスラエルに与えられた定め
 7節には次のようにあります。「わたしが、彼の肩の重荷を除き籠を手から取り去る」。このときイスラエルの人々は、今言いましたように、敵の手の内にあり、そういう意味で重荷を負っていました。自分では如何ともしがたいその重荷を主は取り除かれるというのです。そして、その条件として、8節にはこう続きます。「わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない」。これは、モーセを通してイスラエルに与えられた十戒の中の第一の戒め、第一戒です。
 これは、以前奴隷生活を送っていたエジプトから脱出し、生活の保障のない荒れ野のなかでもう自分たちの中に希望を見出せないそういう苦境の最中(さなか)に、与えられたものでした。その石に刻まれた古い掟を、今再びイスラエルの人々に示したのです。モーセに与えられて以来、イスラエルの人々は十戒を大事な掟として守り続けたものでした。それにもかかわらず、いつの間にかイスラエルの人々は掟を忘れ、他の神を求めた、つまり他の神を拝んでいというのです。

主は民を「思いのままに歩かせた」
 掟を守らない頑なな心の民を主はどのようにされたのでしょうか。13節には次のように書かれています。「わたしは頑なな心の彼らを突き放し思いのままに歩かせた」。わたしが主であると示してもなお他の神を拝んだイスラエルの人々を、主はついに突き放したというのです。その結果、自由に歩みを始めた人々は、敵の手に落ちてしまったのです。主は、彼らの思うがままに歩ませることで彼らを罰したのです。

救いの主
 人間が頼るものは主以外にはいない、そうであるからこそ主は権威をもってイスラエルに掟をお与えになります。「イスラエルよ、わたしに聞き従え、あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない」と命じられます。
 これは、いかにも一方的な言葉ですし、正面から受け止めるならばわたしたち人間は萎縮してしまうような強い言葉です。でも、主の掟は一方的に与えられるからこそ、主の掟は主の掟であり続けるのです。そしてその掟によって主は人を本気で救おうとされます。本気で救おうとされるとは、わたしが本気だからあなたはどんなでも良いということではありません。むしろ、救う方が本気なら救う相手である人間も本気であれと期待されます。主が望まれるのは、単にあっさりと救い救われるだけの無機質な関係ではなく、神とその民との間の特別の信頼関係です。それほどまでに、主は大事な一人の人間としてわたしたちをいとおしんでくださるのです。そうであるならば、イスラエルにとっても、またわたしたちにとっても掟を受け入れることは主に希望を持つことに他ならないのです。
 この詩編の冒頭の讃美は、わたしが主である、異国の神があってはならないという厳しい言葉に畏れつつもなお、わたしを本気で救おうとなされる方はこの方しかいない、という詩人の全存在をかけた真剣な信仰から出たものなのです。

最新の説教集へ