説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2006年5月 ***

昇天主日礼拝

2006年5月28日 池谷考史(神学生)

地上にある者の喜び
~心の目が開かれて~

使徒言行録1:1-11  エフェソ1:15-23  ルカ24:44-53

・昇天
 今日は教会暦では昇天主日と呼ばれる主日です。十字架にかかり、復活したイエス様が天に上っていかれる、そのことを覚える日です。今日の聖書にも、ルカ福音書のクライマックスとしてそのことが生き生きと描かれています。
 天に上っていくイエス様と別れる弟子たちの様子が51節以下に描かれていますが、彼らはイエス様との別れにも関わらず、直後になんと「大喜びで」エルサレムへ帰っていったというのであります。親しい人、信頼していた人が自分のもとを去って、天に上げられるとき、いったい誰が、大喜びできるでしょうか。寂しく思うのが普通ではないでしょうか。
 その彼らの喜びは、45節にあるように、イエス様が「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた」結果なのであります。

・心の目が開かれるということ
 心の目が開かれる、とはどういうことでしょう。それは、イエス様がわたしたちのために十字架に架かられたこと、その死を打ち破って墓から再び立ち上がられたことが、実はわたしのための救いであるということを聖書に教えられるということです。
 復活の主は弟子たちの目の前に立って、言うのです。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。この言葉によって、弟子たちはあの痛々しい十字架、そして、目の前で起こっている復活が、自分のための神の救いの出来事であることにはじめて気づいたのです。このようにして、彼らの間に救いは起こったのでした。

・神の救い
 神の救いの出来事が起こるとは、罪多い世の中にあっても人間が「すでにわたしは神に救われている」という確信が聖書によって与えられるということであります。その結果、どんな場所でも喜んで力強く生きるということであります。そして、人間がそのように生きることが神の意思でもあり、それが弟子たちの間に実現したことなのであります。
 その救いの出来事は、イエス様の十字架と復活によって弟子たちに現わされました。そして、弟子たちはそのような出来事の証人となったのです。
 そのことを弟子たちに「悟らせた」イエス様が、祝福しながら彼らのもとから遠ざかって天に上っていかれます。そうして弟子たちを救いの出来事の証人とすることによって、神の救いをすべての世界にもたらすのでした。
 弟子たちは、大喜びしながらエルサレムへと向かいます。救いにあずかった弟子たちにとっては、エルサレムは単なる敵地ではなくて、たとえ苦難があっても、すでに希望に満ちた神の国でした。だからこそ、弟子たちは喜んで生きることができたのです。
 このように希望を持って生きることがわたしたちの確かさによってではなく、神によって許されている、約束されている、聖書の語るその福音にわたしたちももう一度耳を傾けたいのです。

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復活後第4主日

2006年5月14日 小島愛光(信徒)

手入れをしてくださる方
(わたしはぶどうの木)

使徒8:26-40  1ヨハネ3:18-24  ヨハネ15:1-10

 聖書に登場する植物の中でぶどうは圧倒的に多く用いられています。「ぶどう」「ぶどうの木」「ぶどう酒」「ぶどう園」などと記され、これほど多く出てくる植物名は他にはありません。もともと"ぶどう"は当時のユダヤ地方においてはごく一般的な植物で人々に親しまれていました。それはどこにでも散見される植物であったといえます。その栽培方法は、湿度の高い日本のように棚を作っての栽培方法とは違い、ユダヤ山地の石のゴロゴロとしている所でも地ばい法と言って、地べたを自然に這わせて栽培する最も原始的な方法であったようです。しかし、ぶどうの木は毎年、枝の剪定をきちんとしないと、良い実を結ぶことは出来ません。

“ぶどうの木”
 ヨハネ福音書の中には「私はぶどうの木である」と同じように「私は~である」という表現がいくつも出てきます。それは「世の光」「門」「よい羊飼い」「真理」「道」「いのち」です。こうした形容だけではなく、「わたしはある」といわれているように神ご自身の自己宣言(出エジプト3:14)に基づいた神的宣言をうたわれている箇所も幾つかあります。
(8:24,28,58.13:19)
 旧約聖書においては、しばしばイスラエルの民がぶどうの木にたとえられています。例えば詩篇80:9以下には神の業をぶどうの木の栽培にたとえて語られています。ぶどう畑のもう一つの有名な箇所はイザヤ書5:1~6です。
 この詩からは神がイスラエルの民をいかに愛されたかが伝わってきます。しかし、イスラエルは神の期待に反して、悪しきぶどうの実を結ぶことになってしまいました。神から選ばれたイスラエルの民であることが救いの条件ではなく、イエス・キリストにつながって良い実を結ぶ者こそが救いに与るのだということです。

“既に清くなっている”
 3節では「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と言われています。
 この「清くなっている」という言葉は、この前の13章にも出てきます。イエス様が弟子たちの足を洗われたときに、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」と言われて、ペテロの足を洗われました。ここでも、主の慰めと励ましの言葉が語られます。洗礼によってイエス・キリストにつながっている者は、それだけで、既に清くされているのです。
 「わたしはぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみないよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」 その宣言の後で、やはり主の慰めと励ましの言葉が添えられています。「わたしの話した言葉によって、あなた方は既に清くなっている」といわれるのです。イエスさまはみ言葉によって、既に枝の手入れが済んでいるといわれるのです。

“主につながる”
 ヨハネ福音書には「つながる」という言葉と「とどまる」「泊まる」という表現が出てきます。この「つながる」という言葉も、大切な言葉の一つになっています。
 ぶどうの木であられる主につながることによって、み言葉を受け、清くされ、豊かな実を結ぶように、永遠の命を注ぎ込んでくださいます。
 わたしたちは、世俗的な行いや、さまざまな技によって豊かな実を結ぶのではありません。ただ「つながっていなさい」ということが求められているのです。
 わたしたちがいつも自分の力で一生懸命にぶどうの木につながっていようとすることは、大変な努力が必要であり、そんなことは到底出来ることではありません。
 ぶどうの木は毎年、枝の剪定を行うことによって、新しい枝に、新しい年に豊かな実を結ぶことが出来ます。主イエスのぶどうの木は、わたしたちが、たとえ離れている時でも、手入れを充分に施していてくださるのです。
 そのことは、「小さくされた人々のための福音」の中で、本田哲郎神父はこう云われています。「わたしが身をもって告げたそのことによって、あなたがたは、すでに手入れがすんでいる」(15:3) 既に手入れがすんでいるぶどうの木に連なるとき、主は既に手入れをすませ、豊かな実を結ぶ枝として受け入れる準備を整えてくださっているのです。
 第一の日課(使徒言行録8:16~40)は神からの啓示によってフィリポはガザへの道で宦官に出会います。「読んでいることがおわかりになりますか」と声を掛けます。宦官はフィリポの福音の知らせを通して信仰を告白し、洗礼を受けます。「そして喜びにあふれて旅を続けた。」のです。 彼も主につながる者となりました。主の御業が戒律から宦官を解き放し、既に手入れがすんでいるぶどうの木につながる枝とされたのです。

“愛と命と聖霊の力”
 「わたしはぶどうの木」と言われるお方が、わたしたちの内に愛と永遠の命への希望と聖霊の力を注いでくださるのです。
 ぶどうの枝が、毎年、剪定してよい実を結ぶのと同じように、わたしたちも毎週の礼拝と聖餐を通して、主イエス・キリストの愛を受け、新しい命を与えられ、希望を持って主の枝としての福音を喜びを持って受け取り、既に手入れがすんでいると言ってくださるぶどうの木につながって、成長して参りたいと思います。
 ぶどうの木であられる主の恵みに感謝し、主によって今日も新しくされて福音の歩みに派遣されて参りましょう。

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復活後第3主日

2006年5月7日 池谷考史(神学生)

主われを愛す

ヨハネ21:15-19  1ヨハネ3:1-2  使徒4:23-33

「愛する」こと
 今日与えられた聖書の箇所では、イエス様と弟子ペトロの会話が記されています。イエス様がペトロに問うのです。「この人たち以上にわたしを愛しているか」。主であるイエス様を「愛しているか」とは、わたしたちが考えている以上に重い問いです。愛するとは、単に好き嫌いの問題ではなく、たとえ自分に不利益をもたらす人であっても、その人に自分自身を与えるということだからです。

ペトロへの問い
 以前、イエス様を見捨てたペトロにとってはいやがおうにも緊張が高ぶったはずです。ペトロはこう答えます、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」。「はい」とは言ったものの、実に歯切れの悪い答えです。この答えの裏に透けて見えるペトロの本心はこういうことでした。「本当はあなたを愛したいのですが、完全に愛することはできません。それはあなたがご存知でしょう。でしたら、そんな不完全な私を助けてください」、そう言うのです。
 彼は苦い経験から、どんなに自分が頑張っても、どんなに主を愛したくても本当には愛せないことを心の中では良く知っていたのです。それだからこそ、ペトロはもう自分の力ではなく主により頼むより他ない、そういう切なる願いをこめてそのような答えをしたのでした。
 一方で、かつてこの弟子に見捨てられたイエス様はそのことを初めからお見通しだったことでしょう。ペトロが「はい」とはっきり答えられないことを知りつつ、あえて手厳しい質問をしたのでした。「わたしを愛しているか」。それによって、ペトロは一番つつかれたくない、できるならばいつまでもあやふやなままにしておきたい部分を直視させられたのでした。でも、ペトロは、実は主の前では誇るものが何もない、そのことを深く悟ることが必要だったのです。なぜなら、そのときはじめて、自分の中のあるじが自分自身ではなく、主イエス様にとって代るからです。だから、イエス様はあえて厳しい問いをすることでペトロにそのこと悟らせたのです。
 そして、このやりとりの3度目にイエス様から「わたしを愛しているか」と聞かれたペトロはついにここで「悲しくなった」というのです。ペトロからすれば精一杯「はい」と答えているのにもかかわらず、3度も念を押すように同じ事を聞かれて悲しくなったのでした。「わたしはわたしなりにあなたを愛しています。ただその不完全さがもどかしいのです。だからあなたにすがっているのではないですか」、そういう気持ちだったのでしょう。

愛の神
 でも、今日の聖書ではそういうペトロに対して「あなたの持つことのできる以上の愛を求めない、あなたはそのままでもいい。あなたがわたしを愛せないなら、わたしの方からあなたを愛するから」そういって、弱さを自ら全部背負ってくれる方がイエス様なのだということがはっきりと語られています。
 いかにも自信なさげな答えをしたペトロに対し、主は「わたしの子羊を飼いなさい」と言って、イエス様自身が行ってきた地上での業を彼に引き継いだというのです。でも、ペトロ自身はその任にふさわしくなくても、ただ主の愛に支えられて歩めばよい、そのことだけをイエス様は求められるのです。さらには、「わたしに従いなさい」とイエス様は言われます。この言葉は、強制や命令でもあるかもしれませんが、主の愛に触れたペトロにとってはむしろ、「わたしの愛のうちに留まりなさい」という主の愛への招きの言葉として響きました。だからこそペトロは主を愛し、自分自身を主に与えるべく従っていったのです。
 その後の彼は人が変わったように、数々の迫害にもめげず雄々しくイエス様を伝える人生を歩みます。ペトロに現わされたその強さはペトロが主イエス様を愛して止まないあまりに成し遂げられたのではなく、むしろイエス様が彼を愛したから為しえたことなのです。
 わたしたちは、主を完全には愛することのできない者です。他人をも愛するのは難しいのです。こうありたいという願いを込めてペトロのように「はい、あなたを愛します」と宣言するものの、その実、そうあることはできないのです。
 けれども神の前では、恐れずに、逃げずにそのようなありのままの弱い自分に向かい合うとき、わたしを愛される主がいることに気づき、強められるのです。そして、たとえ不完全な愛であっても「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です」と答えるとき、その言葉は中身の伴わない空虚な宣言に終わることなく、わたしたちは主の愛にしっかりと根を下ろして歩むことができるのです。

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