説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2006年4月 ***

復活後第2主日

2006年4月30日 竹内茂子(信徒)

完全主義者たちへ
-あなたを捕らえる永遠の愛-

使徒4:5-12  1ヨハネ1:1-2  ヨハネ21:1-14

<失意の弟子達>
 復活後昇天までの間に、2回イエス様は弟子達の前に姿を現されました。
 1回目は、ユダヤにおいて(ヨハネ20:19~)
 弟子達は、イエス様と関わっていた事を知られたくないので家の中に隠れて鍵までかけていました(人間としての弱さは親しみを感じさせます)。
 2回目は、ガリラヤにおいて(ヨハネ20:26~)
 「私を見たから信じるのか? 見ないのに信じる人は幸いである」の言葉は心に深く刺さります。
ヨハネによる福音書は、一応20章で終わっていますがその後、著者ヨハネがペテロの行動を中心に書き加えられたものと考えられています。
 7人の弟子達(1.シモン・ペテロ 2.ティディモと呼ばれるトマス 3.カナ出身の、ナタナエル 4.ゼベタイの子ヤコブ 5.ヨハネその他に2人)は、イエス様に再会して息を吹きかけられたり、御言葉をいただいたりして元気になりました。
 しかし、その後は仕事もなく、世間の目を気にしながら失意のうちにガリラヤ湖のほとりにいつしか来ていました。そして漁をするために船を出しました。

<ガリラヤ湖にて>
 ガリラヤ湖は、ティベリアス湖、ゲネサレ湖、キンネレテ湖(竪琴の意)と、たくさんの名前を持っています。
ロケーションは、海抜マイナス210m(死海マイナス400m)、南北22.5㎞、東西12.8㎞、水深46m、ヨルダン川が流れ込み、湖底から水が湧き出して豊かな水源地。
 ちょうど、霞ヶ浦と同じぐらいの湖。15年ほど前に聖地セミナーに参加した時に遊覧船に乗ったことを思い出します。遠くに、ヘルモン山が見え、湖畔には葦が風にそよぎ、鴎が空を舞っていました。湖畔のレストランで30センチぐらいの魚(鮒の一種)のから揚げを食べました。「これは、ピーター・フィッシュと言って、口をあけると中に丸いものが見え、それが金貨に見える……とも言われています」と誰かが教えてくれました。(マタイ17:24~27「神殿に税を納める」)
 イエス様は優しく弟子達を見守っていらっしゃいました。夜通し、漁をしても魚がとれない弟子達を気の毒に思い、網を降ろす場所を教えられました。弟子達は、プロの漁師ですからきっとプライドがあったことでしょうが、指示に従い網を降ろして見ました。その結果、網に入りきれないほどの魚が獲れたと書かれています。
 イエス様と気づかなかった弟子達も(ルカ5:4~6)の体験がよみがえり洞察力の鋭いヨハネが「あれは主だ!!」と直感してペテロに伝えました。率直な性格と言われているペテロは、鶏が鳴く前に3回もイエス様を知らないと言ったことや、裸同然の姿が恥ずかしくてすぐに湖に飛び込んだのでしょうか?
 陸地まで、200ぺキス(約90m)、やっとの思いで153匹の魚を引き上げました。当時、世界の魚の種類は153種と考えられ、世界の魚(世界の人々)を伝道と言う網で捕らえる事を象徴しているのではないかと言われています。

<朝食はすでに準備されていた>
 疲れきった弟子達が陸に上がってみると、なんとそこには既に炭火が熾してあり、その上にはパンと魚が乗せてありました。イエス様が弟子達のために朝食を準備してくださっていたのです。
 ここから、私の「なぜ?」「どうして?」がはじまるのです。
 イエス様は5節で「子供たちよ、何か食べ物はあるか?」とお聞きになっています。この言葉は、イエス様もお腹が空いているので食べ物を探しているか、または、弟子達に頼んでいるかのような感じに聞こえてしまいました。でも、湖畔には美味しそうな朝食が準備されています。それならば、はじめから「食べ物はここにありますよ」と言ってくださっても良いのではないでしょうか?
 以前、聖書を読む時には訳の違うものと比べてみると参考になる……と聞いた事がありましたので、「新改訳聖書」を読んでみました。すると、一番気になっていた5節は「子供たちよ、食べるものがありませんね」と書かれています。イエス様のこの御言葉は、一晩中働いたのに1匹の魚も獲れない、プロとして恥ずかしい、お腹が空いてもうくたくた……という惨めな思いをしている弟子達の現実をはっきりと理解していらっしゃるように聞こえます。ですからイエス様は先回りをして朝食の準備をしてくださったのです。
 ご自分の空腹を満たすために「食べ物があるか?」と聞いたのではないのだと思います。でも、はじめから「これを食べなさい」とおっしゃらないで弟子達が全力を尽くした後にこのように心も体も満たされる食事を準備してくださる事は本当に素晴らしい事です。
 御心に従い、全力を尽くした後には神様の力によって思いをはるかに超えた恵みが準備されている幸いを感謝してまいりたいと思います。

最新の説教集へ

復活祭(イースター)

2006年4月16日 北尾一郎(牧師)

私は見た、あの方を

イザヤ25:6-9  1コリント15:21-28  ヨハネ20:1-18

■私たちは今日、主イエス・キリストの復活を記念する礼拝を共々に守っています。旧約聖書は言います-「主は…すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである」(イザヤ25:7-8)。「神が死を永久に滅ぼすくださる」という驚くべきメッセージは、現実になるものでしょうか。イースターの出来事は、この問いに対する明確な答えを与えます。

■まず、新約聖書の中で最も古い文書の一つである、コリント教会に宛てた手紙の中で使徒パウロが述べていることを確認しましょう。彼はこう言いますー「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ…順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます…最後の敵として、死が滅ぼされます」(1コリント15:21-26) 。

■このような情報を使徒パウロは、どこから獲得したのでしょうか。このニュース源は、キリストの出来事を目撃した直弟子たちの群れである「エルサレム教会」でした。そうした証言の主要な内容は、この手紙の15章の冒頭にも書かれていますが、今日の朗読聖書日課として与えられている、ヨハネ福音書20章にあるマグダラのマリアの証言は、極めて印象的であります。マグダラのマリアは、主イエスによって「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた」多くの女性の一人で、病気のデパートのような人でした。その結果、社会の中で疎外されていました。何よりもその不幸が、神から見離された証拠だと自他共に思い込んでいたのです。
 しかし、イエスという方に出会った時、彼女の人生は一変しました。神が彼女を顧みてくださっていることを確信しました。主イエスがそう言われたのです。「悪霊を追い出していただいた」というのは、そのような意味であります。彼女は、それ以来、イエスと十二弟子の一行の旅の裏方を引き受けたのでした。しばらくして、主イエスの旅は、恐ろしくも哀しい終わりも迎えます。弟子たちに裏切られ、ローマ軍の兵士たちとユダヤの指導層の下役たちによって「あの方」は逮捕され、不当な裁判を受け、鞭打たれ、刑場まで十字架を運ばされ、十字架に付けられ、息を引き取りました。そして、墓に納められる現場を彼女は目撃したのです。

■マリアは夢中でした。できることはすべてしました。三日目の日曜日の朝早く、彼女はその墓に行きます。そして、「あの方」の御遺体がなくなっていることを発見したのです。彼女はそれを主要な二人の弟子に通報します。二人も現場を見た証人です。この記事の描写は詳細にわたっており、これが一次的証言であることを思わせます。墓は「園」の中にありました。泣いていたマリアが、二人の天使と会話を交わします。そして泣きながら「後を振り向いた」時、マリアは、復活のキリストとの出会いを経験します。主との会話の後、弟子たちに報告します-「私は見た、あの方を」。私たちも、復活のキリストと出会い、証言するのです-「私は見た、あの方を」と。

最新の説教集へ

枝の主日

2006年4月9日 北尾一郎(牧師)

その日、都は夢を見た

ゼカリヤ9:9-10  フィリピ2:6-11  マルコ11:1-11

■教会の「暦」は、一年で最も大切な祝日(復活祭・イースター)に向かってひたすら進んでいます。今日は、その最も大切な祝日の1週間前で、「枝の主日」に当たります。なぜ、「枝」といわれるのでしょうか。それは、今日の福音書に書かれています。よろしければ、マルコ福音書11章をお開きください。
 主イエスは、あと少しで、エルサレムの都への旅を終えようとしておられました。エルサレムは、地中海の海面よりも792メートル高い所にある都です。その東には、海抜829メートルの「オリーブ山」がありました。その東側の斜面に「ベタニア」という村がありました。「ベタニア」とは、「熟していないイチジクの家」いう意味で、マルコ福音書では、すぐ後に「いちじく」の話が出てきます。
 エリコからエルサレムに上る街道にあるベタニアは、エルサレムまであと2.8キロの地点にあり、少し進むと「ペトファゲ」になります。その辺りにさしかかった時、あと30~40分もすればエルサレムに着く、という所で、主イエスは、二人の弟子を先遣隊として派遣されます。
 そのころは、王が都に入城する時には「馬上」にまたがって行進することになっていました。今、主イエスは、「馬」ならぬ「子ろば」に乗って、エルサレムに入城されます。すると、多くの人が自分の服を道に敷き、またほかの人々は畑から葉のついた枝を持ってきて道に敷きました。人々のこのような行動は、イエスを「王」として迎えているということを暗示しています。

■「王」を迎える
-それは、この都の人々の永年の「夢」でありました。この時から約100年前、この都は、ローマの将軍によって占領され、ローマ帝国による鉄の支配の下にありました。その力を覆して、独立イスラエルを復興する強力な指導者が現われることを、都の人々は信じていました。その「夢」が今実現しようとしている-それが、その日、都が見た「夢」でした。
 しかし、それは、文字どおり、“束の間の夢”でした。「王」のようにエルサレムに入城した人は、その週の木曜日の夜、当局によって逮捕されてしまったのです。しかし、この週エルサレムの都で起こった出来事を、冷静に見つめる必要があります。シャボン玉のように消えた「夢」は、この「イエス」という人物に関する誤った理解に基づく「虚像」にかけた夢でありました。ローマからの独立という政治的・軍事的な「解放者」という虚像を作り上げていたからです。もっと言えば、それ以外の夢を持つことができなかったのです。

■今、私たちは、「イエス」という方の「実像」に迫る必要があります。その実像は都の人々が見抜けなかった事実に示されています。それは、主イエスが「子ろば」に乗られたという事実です。普通の将軍ならば、(白)馬にまたがるはずです。しかし、「ろば」は荷役に用いるもので、乗馬用ではありません。では、主イエスはなぜ「ろば」、しかも「子ろば」に乗るようなことをされたのでしょうか。その鍵を握る言葉が今日の旧約聖書の日課にあります。ゼカリヤ書9章です。

娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。

 預言者は言うのです-神がイスラエルから「戦車」と「軍馬」を絶ち、「戦いの弓」を絶ち、諸国の民に平和を告げられる、というのです。

■あの日、エルサレムの都が迎えたのは、このような「王」でありました。戦いの王ではなく、「平和の王」でした。しかも、主イエスの「平和」は、戦車と軍馬による勝利ではなく、「神に従う」にことによって与えられる勝利を意味しています。この場合、「神に従う」とは、十字架への道を甘受することを意味しました。
 それは、主イエスがあえて望まれたことではありませんでした。しかし、それは、「神の御心が行われる」ことでありました。それは、主イエス御自身の中で、熾烈な戦いの後に与えられた「勝利」でした。そのことは、いわゆる「ゲッセマネの祈り」という記事に示されています。
 それこそが、その日、都が見るべきであった「夢」でした。しかし、あの都は、知らずして、この「夢」を見たのだと言えるかもしれません。都が見るべきであった本当の「夢」、すなわち預言者ゼカリヤが語った「夢」は、主イエスの十字架の出来事によって実現したからです。そして、その結果、この「夢」は、単にエルサレムの都の夢にとどまらず、すべての人類に真の救いと永遠の命を与えられるという「夢」を現実のものとしたのです。

■問題は、私たち自身が、この出来事の本当の意味をしっかりと見つめて、その日、都が見るべきであったのに見ることができなかった、本当の「夢」を見ることです。それは、しかし、私たちの心の中を見ることでもなく、頭の中でとらえようとすることでもありません。使徒パウロは、今日の使徒書のペリコペーの少し前の行で、次のように語っています。

何事も利己心や虚栄心からするのでなく、
へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
互いいこのことを心がけなさい。
それは、キリスト・イエスにも見られるものです。

キリストは、神の身分でありながら、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、
人間と同じ者になられました。
へりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順でした。

最新の説教集へ

四旬節第5主日説教

2006年4月2日 鈴木連三(信徒)

わたしは裁かない
~新規契約更新の勧め~

エレミヤ31章31節~34節  エフェソ3章14節~21節  ヨハネ福音書12章36節b~50節

わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、わたしたちにあるように。

 携帯電話って難しいと感じている方はいらっしゃいますか? わたしは慣れるまでは使い方が難しいと感じることもありましたが、本当に今でも難しくて分からないなあと感じるのが、その契約ごとに異なる料金制度です。たとえば昼によく使うか、夜が多いかとか、家族ばかりと話すか仕事で色々かけるかとか、家族何人かでまとめて加入しているか、その中に小学生がいるかとか・・・使い方によって電話会社との契約内容を変えることで、料金に大きな差がでるそうです。でも、新しい料金サービスができるたび、どれにすれば本当に得なのか見極めることはとても難しいことです。電話屋さんに行って店員さんに相談しても、その店員さんでもわからないということも珍しくないようです。

エレミヤの時代
 今日の礼拝の第一のテキストとして、わたしたちにはエレミヤの預言の言葉が与えられています。まず、このエレミヤの時代の背景を知っておきましょう。エレミヤ書1章には、エレミヤの預言者としての活動期間は、南王国、ユダの王ヨシヤの治世第13年(紀元前626年)から始まり、その子ゼデキヤの治世の第11年(紀元前587年)の5月、つまりバビロニアによる捕囚まで続いたとされています。始まったときには、ヨシヤ王は21歳、エレミヤはまだ、18歳であったといわれています。
 当時、北王国であったイスラエルを既に滅ぼしていたアッシリアは、すでに勢いをなくしていました。バビロニアの台頭です。そのバビロニアがユダ王国をうかがっていました。
 この時代の大きな出来事として、ヨシヤ王による『宗教改革』運動があります。ヨシヤ王の治世第18年(紀元前621年)に行われたこの改革は、バアル神などに影響を受けたイスラエル全域にわたる地方の聖所の全廃、エルサレムへの聖所の統一による純化が中心となっています。これによりエルサレム集中による『挙国一致体制の確立』が図られました。しかし、そのヨシヤ王はそれから12年後、紀元前609年に、エジプトとの戦いで戦死します。ユダ王国はエジプトに敗れてから、当然、親エジプト、つまり、反バビロニア政策を採ることになります。しかし、紀元前598年と紀元前589年から587年にかけてバビロンの進攻をうけ、ユダ王国は滅亡し、神殿は無残なまでに崩壊させられたのです。

エレミヤの預言『新しい契約』
 エルサレム神殿絶対主義ともいえるヨシヤ王の宗教改革の後、イスラエルの民は国家滅亡、神殿の破壊という絶望的な結末を迎えたわけです。このような時代にエレミヤは預言します。今までの契約とは違う、新しい契約が与えられる日が来るというのです。
 今までの契約・古い契約とは神様がモーセとシナイで締結した十戒のことです。古い契約、十戒が二枚の石板に刻まれたのに対し、神様が新しく結ぶ契約は人間一人一人の心に刻まれるといいます。古い契約は神様の正義・公平を命令の尊守を求める形で与えられたものですが、新しい契約は人間性そのものの更新ともいえる性質を持っているということです。
 神様はエレミヤの口を通して語ります。
 『わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。』

『わたしは裁かない』
 今日の福音書の箇所は先週の箇所と同様に、イースターでの洗礼を促すために大変ふさわしい箇所であるといわれます。それは、この中にキリストの福音のエッセンスが凝縮されているからです。
 『わたしを信じるものは神を信じる。暗闇の中に留まることはない。わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来た。』
 キリストが世に来た目的は人間を神様への背信、すなわち罪から救うことなのです。人間の罪を裁くことではありません。裁くということは相手のしたこと、経緯や結果に応じてそれぞれ相応しい応答を与えることと言えるでしょう。良い行いには良い結果が、悪い行いには悪い結果が、裁きによって与えられます。しかし、キリストによる救いはこのようなものではありません。人間がどんなことを行ったのかということには関わり無く、罪を赦し、恵みを与えてくださいます。ここでは人間の側の行為、善行の度合いは関係ありません。ただキリストの福音を自分のこととして心から全て受け入れること、つまり信じることだけが求められるのです。

お得な新規定額契約
 これは携帯電話の契約にたとえるまさに定額契約です。この契約さえすれば、どれだけ電話を使っても、料金は変わらないという契約です。わたしたちが『キリストを信じる』という新しい契約を結びさえすれば、わたしたちに何があっても、わたしたちがどんな人間であっても、イエス様は、わたしたちを裁くことをしないで、赦してくださるのです。イエス様とつながってさえいれば、神様と離れることは決してありません。
 しかも、その料金は払いきれないほど滞納していた今までの分も含め、利用者であるわたしたち以外からすでに支払われているのです。だれが支払ってくれたのでしょう? 電話会社の経営者である神様です。それが先週のテキストでもあるキリストの十字架です。
 先週のテキストはわたしたちに語ります。『神はひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。』
 わたしたちは、途方も無いほど罪の代償を神様に払わなければ、神様につながることは赦されないはずなのに、神様自身であるキリストが十字架にかかることによってすでにそれが支払われています。このような素晴らしい新規契約のチャンスが与えられているということは、驚きであり、ただただ恵みです。
 但し、この新規契約加入期間は無限ではありません。『わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れないものに対しては裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。』とイエス様は言います。終わりの日にキリストは再臨されるのです。それがいつかはわたしたちにはわかりません。明日かもしれないのです。だから、わたしたちはいつ来るかわからないキリストの再臨の日が来る前までに、つまり、今すぐにこの勧めに応えることが求められているのです。

聖餐の設定辞
 私たちはこの後、聖餐を行います。聖餐の設定辞を思い起こしましょう。
 『また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです』ここにも「新しい契約」という言葉が出てきます。聖餐では、私たちが聖餐にあずかるたびに、私たち自身が神様との「新しい契約」の関係にあることを確認できるのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、わたしたちの心と思いを、キリスト・イエスにあって守るように。

アーメン

最新の説教集へ