説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2006年1月 ***

顕現節第4主日

2006年1月29日 北尾一郎(牧師)

きのうから明日へ
-御旨を行うすべを教えてください(詩編143:10)-

申命記18:15-20  1コリント8:1-13  マルコ1:21-28

■「礼拝の会衆」と「総会の議員」
 今日は「大岡山教会」の「総会」の日であります。総会は、この<礼拝>をもって既に始まっています。礼拝の参加者全体をキリスト教会では「会衆」(congregation)と言います。そして、<議事>に入ると、会衆は「総会」(assembly)と呼ばれます。ところが、「礼拝の会衆」と「総会の議員」とは、ほとんど同じメンバーです。両方の意味を含む一つの言葉がないものでしょうか。
 そう思って、「ヘブライ語」で書かれている旧約聖書を見ますと、「カーハール」(qahal) という言葉があり、「会衆」とも「集会」とも訳されています。今日の日課である申命記の18章16節では「集会」と訳されています。
 大まかに言えば、これこそ、私たちの総会のルーツであります。イスラエルの会衆は、ホレブ(シナイ山)で、聖なる神の前に立ちました。エジプトの圧政の下から神によって導き出されたイスラエルの民は、自分たちが聖なる神を見ると直ちに死んでしまうにちがいないという、あまりにも厳粛な「畏れ」の体験をしたのでした。それは今日でも、礼拝の持つ一つの側面であります。
 イスラエルの民は「神の人」と呼ばれた「モーセ」を仲介者として神と会見しました。しかし、モーセは、永遠の存在ではありません。今日の旧約聖書、申命記の18章15節と18節で、モーセはこう語っています-「あなたの神は、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる」。その「モーセのような預言者」が、キリストであります。キリストこそ「ただひとりモーセを超えた預言者」であります。

■総会は、キリストによって召集される
 今日の福音書は、「汚れた霊に取りつかれた男」の話です。ある安息日に、彼はカファルナウムの会堂におりました。その会堂に人間の姿となられたキリストが入ってこられました。いちはやくキリストの正体を見破ったのは、ほかの誰でもなく、この「汚れた霊に取りつかれた男」でした。彼はこう言ったのです-「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。
 私たちは、このキリストを「神と人間との間の唯一の仲介者」として、集会を持っています。私たちの総会は、主イエス・キリストによって召集(>招集)された会衆なのです。私たちは、洗礼において、キリストが十字架の上で流された「あがない」(救い)の血によって白くされた「義の衣」を、受け取りました。それは、私たちが自分の力で獲得したものではなく、キリストに免じて、神から一方的に与えられたものであります。そのことを「恵み」と言います。私たちは、実に「キリストを着て」神の前に集められているのです。そのような訳で、教会の総会は、礼拝によって開会され、祈りによって閉会されます。

■「きのう」は終わり、「明日」(アシタ) が始まる
 ところで、福音書に紹介されているあの男は、イエスの正体を言い当てましたが、その後、どうなったでしょうか。福音書はそのことを簡潔に語っています。イエスはその人に取りついていた汚れた霊に対して、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊は、その人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行ったのでした。
 その瞬間、この人の「きのう」は終わり、「明日」が始まったのです。それこそが、この人の救いの内容です。他の誰でもなく主イエスに出会うことで、彼は「過去」から解放され、「未来」へと導かれたのです。
 私たちの場合も同じです。私たちは、クリスチャンである友達や先輩や家族を通して、教会に来るようになったかもしれません。クリスチャン作家の文章や、バッハやヘンデルの音楽や、ミケランジェロの作品を通して関心を持つようになったかもしれません。ミッション・スクールやキリスト教の幼稚園や教会学校に通ううちに教会に導かれたかもしれません。また、信徒や宣教師や牧師との出会いから、洗礼にまで導かれたかもしれません。それは、どれも貴重な出会いの恵みです。
 しかし、それは、ほんの「きっかけ」にすぎません。私たちは、一人一人自分自身の霊と心で、あの方、神と人間との唯一の仲保者である神の御子に出会って、初めて救われるのです。難病と闘っておられる保谷教会の伊藤早奈牧師が言われたことですが、彼女にとって、病気が直ることが「救い」ではありません。「病気である自分を受け入れる」とき、「救われる」のです。癒されない自分を受け入れることができるのは、十字架の主が、病を知っておられ、その人のために聖なる血潮を流されるほどにその人を大事にしてくださるただ一人の方であるからです。このキリストを通して、この世の煩わしさに疲れ、惨めさに打ちのめされ、絶望しているその人の存在を、神御自身が肯定し、神のために必要とさえしていてくださることが分かったからです。

■御旨を行うすべを教えてください
 主イエス・キリストに属する「会衆/総会」も同じです。教会は、常に「きのう」から「明日」へと導かれます。ルーテル教会は、「常に改革される教会」であることを目指してきました。個人としても、教会としても、私たちが「きのう」のままでいいということはありません。「明日(あした)」に向かって新しくなるべきです。
 ところで、「あした」はどのような時間帯なのでしょうか。日本でも古代人の一日は、「ゆうべ」から始まり、「よい」「よなか」「あかつき」「あした」と進行しました。古代人の「あした」は、"明日"(あす)という意味よりは、夜の部分の最後の、「明るくなってきた」その早い時間帯(早い「あさ」)の意味を持っていました。
 大岡山教会にも、そのような「明日」が訪れようとしています。いきなり「昼」にはならないかもしれません。しかし、長い夜は終わりに近づき「明るくなっていく」時を迎えるのです。教会の主は、大岡山教会に必要な働き人を派遣してくださるからです。(小椋桂作・愛燦々:過去たちは優しく睫に憩う。…未来たちは人待ち顔して微笑む)。いずれにしても、私たちは、祈りを篤くするほかありません。
 「朝にはどうか、聞かせてください。あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください。あなたにわたしの魂は憧れているのです。御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって、安らかな地に導いてください」(詩編143:8、10)。

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顕現節第3主日

2006年1月22日 池谷考史(神学生)

主にとらえられて

エレミヤ16:14-21  1コリ7:29-31  マルコ1:14-20

突然
 今日の聖書の物語は、イエス様がガリラヤでの伝道を開始するにあたり、何の前触れもなく突然こう言います。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。わたしたちはその唐突さに、まるで今はじめてイエス様がわたしたちに現れたかのように感じ、また、わたしたちははじめてイエス様を知ったかのように感じはっと我に返るのです。
 して、はっとさせられる理由はもう一つあるのではないでしょうか。それはイエス様が発せられた言葉の内容がとてもストレートな命令で、直接にわたしたちに語りかけてくるという緊張感を持っているからではないでしょうか。それだけに、この言葉は私に投げかけられたものとして響いてきますし、まるで自分がイエス様の前に立たされているかのような錯覚にすらおちいるのではないでしょうか。

すべてを捨てて
 さて、このような突然で、緊迫感のある言葉は、漁師であるシモン(のちのペトロ)とアンデレの兄弟にも臨みます。その日、彼らはただいつものように漁に励んでいました。すると、たまたまそばを通りがかった見ず知らずの男にこう声をかけられます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。普通、通りがかりの人に突然、人生に関わる重要なことを言われても、とてもではありませんがまともに取り合うことはできません。でも、二人は不可解なほどにあっさりとイエス様の後をついて行ってしまうのです。さらに、彼らだけにとどまらず、ヤコブとヨハネの兄弟も網の手入れの最中に、イエス様から声をかけられ、雇い人どころかなんと実の父を残してまで従っていきました。

自分自身から自由にされる
 この狐につままれたような話は、わたしたちにいったい何を伝えようとしているのでしょうか。この4人の漁師たちは、いずれも大切なものを持っていました。彼らと同様に、わたしたちも、大切なものをたくさん持っています。今日のこの福音書の物語はわたしたちが何かを大切にするとき、人間的な思いの只中にあるそのとき、はまりやすい落とし穴があることに気づかせてくれるのではないでしょうか。それは何かと言えば、自分の目がその大切なものに向き、結果的に神が見えなくなってしまうということです。ところが、そういう意味では、シモンをはじめとする漁師たちは、イエス様のことばに従うことでその束縛から解放されたのです。
 神の前に悔い改める旧約時代の民の言葉として、エレミヤ書にはこのように書かれています。「我々の先祖が自分のものとしたのは偽りで、空しく、無益なものであった。人間が神を造れようか。そのようなものが神であろうか」。
 ところで、この民が悔い改めるに至ったのはなぜでしょう。それは、偶像礼拝がモーセの十戒で禁じられていたからと言うよりも、自分がこだわっていた偶像そのものが、神と関わりないとすれば、「偽りであり、空しく、無益なもの」であるに過ぎないことを悟ったからであり、そのことを通して神が定められた掟の本当の意味が分かったからではないでしょうか。この瞬間、ざんげの告白をしたこの民はそれまで見失っていた神を発見したのです。いえ、神を見出したからこそ、罪に気づきざんげをしたといった方が良いかもしれません。
 漁師シモンたちがイエス様に従ったのも、従うことが筋道であるからとか、倫理的にそうするべきであるからという理由からではなかったと思うのです。彼らが大きな代償を払ってまで従った理由、それはイエス様のことばによって、見失っていた神を発見しそこに希望を見出したからです。その希望とは、あらゆる束縛から解放されて自由になるということです。今日の日課、コリント書の中でパウロの「世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです」という言葉は、このような福音の本質を端的に言っているのです。

主にとらえられる
 宣教の開始にあたって、イエス様は言いました。「悔い改めて福音を信じなさい」。この言葉は、しばしば神を見失うわたしたちに向けて語られています。もともと、悔い改めるという言葉は、心の向きを変えるというようなニュアンスです。悔い改めは、「時は満ち、神の国は近づいた」から、つまり、神の定められた時にわたしたちのもとへ来られたイエス・キリストによってはじめて可能となるのであります。キリストによってのみ、心の向きを変え、福音を信じてイエス様に従う力が与えられるのです。逆にこのキリストによらなければ、悔い改めもなければ、それ以前に自分が自分に束縛され自由を失っていることにも気づかないのです。自分のことに精一杯で、すぐ目の前にいるキリストにわたしたちは気づかずにいる、そこへイエス様ご自身が声をかけてくださり、ご自身を表してくださるのです。今イエス様はわたしたちにも声をかけてくださっています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、そして「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。
 これはイエス様がご自身のもとへ私たちを招く、招きのことばでもあります。
 この言葉を聞くとき、キリストの存在に気づかされ、もう一度キリストに目を向けることができるのです。それは、わたしたちの自発的な力ではなく、キリストの力によるものです。その意味で、わたしたちは主にとらえられたものとなるのです。

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主の洗礼主日

2006年1月15日 北尾一郎(牧師)

神の心に適う者

イザヤ42:1-17  使徒言行録10:34-38  マルコ1:9-11

クリスマスのメッセージは、幼子イエスのもとに「占星術の学者たちが訪れる」という出来事によって締め括られました。それが、先週の「主の顕現日」の主題でした。そして、その顕現日から、教会暦に従う礼拝の主題は、「顕現節」のテーマに移ります。そのトップに来るのが、「イエス、洗礼を受ける」という出来事であります。
 マルコ福音書1章には、そのことが簡潔に書かれています。しかし、それはとても重要な内容を持っています。このことは、今日ここにいる私たちにも深く関係しているからです。主イエスは、幼児期・少年期・青年期を過ごされた「ガリラヤのナザレ」から出て、世間に打って出る時を迎えられました。故郷を出て、どこに行かれたのでしょうか。それは、当時評判になっていた洗礼者ヨハネのもとを訪ねることでした。そのヨハネは、ヨルダン川にいました。ヨハネは"時の人"でしたから、直接面会を申し込むことはできなかったのかもしれません。主イエスは、ヨハネのもとに洗礼を受けるために群れていた人々の中に紛れ込んだのでした。

その時、主イエスは「ただの人々」の一人でした。しかし、ヨハネから洗礼を受けたイエスが、「水の中から上がるとすぐ」、この人物が「ただの人」ではないことが暴露されたのです。いきなり、「天が裂けて」聖霊が鳩のようにイエスめがけて降って来たのです。しかし、これは、主イエス御自身が「見た」ことで、ヨハネを含むほかの人々に見えたかどうかは分かりません。
 しかし、次の瞬間、天からの声が聞こえました。それは、少なくともヨハネにも聞こえたのではないかと思われます。ヨハネは、神御自身の「証言」によって、目の前にいるこの人物が誰であるかをはっきりと認識することができたのだと思います。

しかしマルコは、そのようなことに関心を持ってはいないようです。マルコ福音書は、むしろ、1章1節で、「神の子イエスキリストの福音の初め」と述べているとおり、これから語ろうとしている「イエス」という人物がいったい何者であるかを読者に印象づけることに最大の関心を持っていると考えられます。マルコの答えは簡潔であり、明瞭であります-イエスは「神の子」である、と。
 マルコは、その第一の根拠として、「天からの声」を報告するのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」-こう宣言されたのは、神御自身であります。前半は詩編第2編7節の言葉であり、後半は今日の旧約聖書のペリコペーであるイザヤ書42章1節の言葉です。「心に適う者」は、イザヤ書では「喜び迎える者」となっています。その預言が、今こそ実現した。だから「わたしはあなたを喜んだ」と神は言われたのです。

■「神の心に適う者」という言葉は、つい最近礼拝で聞いた言葉ではなかったでしょうか。そうです。それはクリスマス・イヴのメッセージでした。羊飼いたちが野原で聞いた天の聖歌隊の歌にあった言葉です。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。この「人」は複数の人間のことです。主イエスが「御心に適う者」とされたからこそ、人間も「御心に適う者」とされるのです。

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主の顕現主日(エピファニ-)

2006年1月8日 北尾一郎(牧師)

異邦人の心を照らす光

イザヤ60:1-6  エフェソ3:1-12  マタイ2:1-12

■「異邦人」とは誰のこと
 「異邦人」という言葉があります。「異邦人」とは誰のことでしょうか。この言葉は聖書から出てきたものです。聖書は答えます。―「異邦人」とは、今ここにいる私たちのことだ、と。つまり、私たちは「ユダヤ人クリスチャン」ではなく、「異邦人クリスチャン」なのです。今日の使徒書であるエフェソの信徒への手紙3章の中で、使徒パウロは、「私は、あなたがた異邦人のために、キリスト・イエスの囚人となっています」と言うのです。
 「エフェソ」の町は、ローマ帝国のアジア州の主要都市として知られていました。現在はトルコの国になっています。エフェソ教会は、使徒パウロの働きによって創設されました。その後、ヨハネという指導者がエフェソを中心とする「教区」の監督となり、「ヨハネの黙示録」が書かれたことは、ご存じの通りです。初代キリスト教会の中心の一つとなりました。そのエフェソの教会は、実に「異邦人の教会」であったのです。エフェソには、アルテミスという女神の偶像を祀る壮大な神殿がありました。アルテミスは、多産と豊饒の神として有名でした。キリスト者たちは、そのような世界から呼び出されてきたのです。

■「救いの船に乗る“乗船チケット”を持っている」かどうか
 エフェソの異邦人キリスト者が聞いた「福音」は、どのようなものだったのでしょうか。それは、実に明快なメッセージでした。「神の民ユダヤ人」と「異邦人である非ユダヤ人」とを厳しく区別する時代が、キリストが来られたことによって、ついに終わった、というメッセージです。
 キリストが来られるまで、ユダヤ人と異邦人との間にはどのような区別があったのでしょうか。エフェソの信徒への手紙の3章に書かれているのは、「約束されたものを受け継ぐ」かどうか、「同じ体に属する」かどうか、「同じ約束にあずかる者となる」かどうか、ということです。この「約束」とは「救いの約束」です。
 たとえて申しますと、「救いの船に乗る“乗船チケット”を持っている」かどうか、というようなことです。このようなことは、現実の世界でもいろいろな形で起こります。それは重大な区別です。「救いの船に乗れる」かどうか、ということです。福音とは、今まではこの乗船チケットを持っていなかった人々にも、乗船チケットが与えられるというようなことです。この「乗船チケット」は、救い主イエス・キリスト御自身であります。キリストは、ユダヤ人であるか、非ユダヤ人であるかにかかわりなく、すべての人間のために来られた救い主です。ですから、救いの乗船チケットは、すべての人に与えられます。
 まさにこの「福音」こそ、キリストが来られるまでは「秘められた計画」でありました。神は、「秘められた」この計画を、使徒たちをはじめとするキリスト教会に対して「啓示された」のであります。そして教会をとおして世界に伝えられるのです。人間の世界は、キリストをとおして、「ユダヤ人」と「異邦人」とを隔てる壁が取り壊されたことを知りました。「和解の道」が存在することを知りました。

■“乗船チケット”は、受け取らなければ
 使徒パウロは、彼自身のことを、神の恵みによって「この福音に仕える者」とされたのだ、と言っています。しかも、パウロは、この恵みが「聖なる者たち(キリスト者)すべての中で、最もつまらない者である私」に与えられた、と語っております。そのような「私」が伝えることであるから、「すべての人が救われる」のは間違いないことだ、と言っているのです。
 ただ、この“乗船チケット”は、それぞれが受け取らなければ、乗船できません。
すべての人に与えられますが、その人が受け取らなければ、その人のものにはなりません。親は、自分だけ乗船しようとは思いません。愛する子どものためにもチケットを受け取ります。それが、「洗礼」であります。子どもは、大きくなってから、そのチケットの重大性を知り、親の愛に感謝するのです。それが、「堅信式」です。
(教会学校の一生徒の年賀状:「今年も神への信仰を大事になさってください」。)

■「異邦人」である、かの学者たちが
 マタイ福音書2章には、「占星術の学者たち」(「賢者」兼「祭司」)が、伝承によって知らされていた特別の星が昇るのを見て、世界人類の救い主に会わないではおれなくなり、はるばるイラン・イラク方面から来て、ついに幼子イエスさまを拝んだ
という話が記録されています。
 この学者たちは、いわゆる「異邦人」を代表していました。マタイ福音書は、この話によって、最初のクリスマスの日に生まれたこの「幼子」は「ユダヤ人の救い主」であるだけではなく、「異邦人の救い主」でもあることを強調しているのです。当の「ユダヤ人」が気づくより前に、「異邦人」である、かの学者たちが、「ユダヤ人の王」(政治的な王を超えた世界の救い主)の出現を知らされたのです。
 異邦人を代表する「シェバ=アラビアの人々が黄金と乳香を携えて来る」ということは、すでにイザヤ書60章に預言されています。その預言は、「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」という言葉によって始まっています。考えてもみましょう。昇る光は、「ユダヤ人」だけの上に昇ることはありません。「異邦人」の上にも昇ります。ですから、「主の栄光」は、「異邦人」の上にも輝くのです。そのことは、東の学者たちが、ユダヤ人の中心地であったエルサレムの人々よりも早く「主の栄光」が輝いていることに気づいた、という事実によっても示されています。
 ルカ福音書1章に書かれている「シメオンの歌」も、「異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」という言葉で結ばれています。

■今ここにいる「わたしたち」も
 エフェソの信徒への手紙3章の12節に、使徒パウロは次のように書いています。「わたしたちは、主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」。「わたしたち」とは、ユダヤ人である使徒パウロだけでなく、異邦人であるエフェソの教会の人々も、含まれています。
 3章の1節で、「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは…」とお互いを区別して語っていた使徒は、12節で「わたしたち」という代名詞によって、お互いが「同じ立場にある」ことを表現しています。今ここにいる「わたしたち」も、エフェソの教会の人々と同じ立場に立っているのです。

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主の命名日 降誕後主日

2006年1月1日 池谷考史(神学生)

新たな出発

創世記1:1-5  2コリント5:17-19  ルカ4:16-20

"主の年"2006年
 今日、西暦2006年を迎えました。今年は皆さんにとって、どんな年になるでしょう。通常、紀元2006年はA.D.2006と表記されますが、このA.D.(Anno Domini)とは、ラテン語で"主の年"を意味します。毎年"主の年"であるには変わりないのですが、特にこの2006年も、わたしたちがどうあれ、主が創られた年であるということを今日もう一度信仰によって確認したいと思うのです。

いつもの場所でいつものとおり
 今日の福音書には、イエス様が、お育ちになった"いつもの場所"ナザレで、"いつものとおり"聖書を開き、読み上げたことが記されています。そこでイエス様が読み上げた聖書の箇所は、預言者イザヤの書でした。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」さらに、今日の日課の範囲外ですが、イエス様はこの聖書の言葉を実現するのは自分であるという意味を込めてこう言ったのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)。
 会衆からしてみたら、大工の子に過ぎないイエスという一青年がメシアを気取ってそのように語ることは宗教的に危険なことでありましたし、当然その内容もとても受け入れられないものでした。彼らの常識からはありえないことでした。だからこそ、それを聞いた彼らは憤慨し、山あいの町ナザレの崖からイエス様を突き落として、その存在を無きものにしようとすらしたのでした(29節)。

新しくされて
 わたしたちは、今日、新しい年を迎えたのですが、考えてみればここは去年までと同じ教会であり、慣れ親しんだ"いつもの場所"です。礼拝は毎週持たれていますし、また、年始めの礼拝といっても、去年もその前の年も年始めの礼拝はありましたから、そういう意味では "いつものとおり"であります。
 にもかかわらず、です。わたしたちは昨日までとは決定的に違う局面が今、目の前に広がるのです。聖書の言葉に従えば「主の恵みの年」をむかえるのです。これは言葉をかえれば新しくされるということです。
 ナザレの会衆は、ありえないことを語るイエス様自身を消し去ろうとしました。これはいってみれば、せっかく与えられた、希望という福音を自分たちの手で消し去ることに他なりませんでした。その結果、彼らのうちには何の変化も起こされなかったのです。礼拝を通して彼ら自身が新しくされることはなく古いままで終わってしまったのでした。
 本来、わたしたちは礼拝においてキリストと出会い、結ばれることで、常に新しい者へと変えられていくはずです。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリ5:17)。でも、ナザレの会衆は結局新しくされることがなかったのです。
 彼らのようにわたしたちもまた、今、礼拝の中で常識では「ありえないこと」を聞きました。それはわたしたちが昨日から一変して、今日 解放され、視力が回復し、自由にされるということです。この神のことばを受け入れるとき、神による希望が与えられ、わたしたちは新しくされるのです。わたしたちが、「ありえないこと」を受け入れるとは、自分に何も力はないけれどそこに神が働いている、そのことをただ単に恵みとして受け取ることです。わたしたち自身きっと昨日と変わらない人間であるかもしれません。でも、今、イエス様の言葉を、大工の子イエスの言葉としてでなく、神の子イエスの言葉として聞きました。確かに、わたしたちの常識を超えているかもしれませんが、神の確かな約束です。ですから、私たちはこうして新しい者となって歩みを始めることができます。この、新しい者となる期待感が、2006年を迎えた喜びであると言っても良いかもしれません。
 つい昨日までの2005年と今日から始まる2006年を分け隔てるもの、それは、この礼拝を通して今「主の恵みの年」が告げられたというその一点にあります。まさに今ここで、わたしたちの真ん中でイエス様がイザヤ書のあの言葉を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されているのです!ですから、いつもの場所で、いつものようにここで礼拝が行われていても、今日は特別な日となるのです。それゆえに、わたしたちにとって新しい出発をする日でもあるのです。これから始まる2006年を大いに期待したいと思います。

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