説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2005年12月 ***

降誕祭

2005年12月25日 松岡俊一郎(牧師)

神様の光の中に生きる

イザヤ52:7-10  ヘブライ1:1-9  ヨハネ1:1-14

 私たちの国では、クリスマスもすっかり年中行事の一つとなりました。街中では10月ごろからクリスマス商品が出回り、11月にはきれいな飾りつけもすっかり整います。そしてそのすべてが24日のクリスマス・イブに向かって行きます。ところが、街では25日になるとその飾りは忽然となくなり、急速にお正月準備に入ります。昨今の風潮に押されてか、教会でも25日の降誕日に礼拝をするところは多くはありません。今年は、たまたま25日が日曜日に当たりましたから全国の教会で今日25日に降誕日礼拝が行われています。クリスマスは、本来24日の夕刻(イブニング)から翌日未明にかけて礼拝が行われていました。例年、25日の朝日が高く上ると、街中からクリスマスの雰囲気が消えてしまいます。そうすると、なんとなく私たちも24日でクリスマスが終わってしまったような気がしてしまうのです。皆さんはどうでしょうか。

 クリスマスにはいくつかのテーマがありますが、そのひとつは「闇に輝く光」です。預言者イザヤは9:1でこう言います。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」苦難の中にある人々に、神様からの救いが来ることを予言するのです。

 25日の朝、数時間前まで、闇の中に美しく輝いていたイルミネーションがなくなると同時に、私たちの感覚も闇に輝く光が消え去ったかのように、すっかり普通の日常に戻ってしまいます。しかし、本当に光はなくなったのでしょうか。

 ヨハネ福音書は、クリスマスをマタイ福音書やルカ福音書が伝えるいわゆるクリスマス物語ではなく、独特にこう表現します。「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ここでいう「言」とは、神様ご自身といっていいと思います。その神様ご自身が、人として、御子イエス・キリストという人として私たちの間に来られ、私たち人類の歴史に直接関わられたのです。神様が人として来られるというのは、私たちの高みにおられて、じっと眺めておられるのではありません。人としての喜びはもちろんのこと、人としてのつらさ、人としての苦悩、人としての悲しみ、人としての挫折や絶望など、私たちが味わっているすべてをご自身も体験され、さらに十字架の死によって私たちの弱さと罪をも引き受けられるのです。その上で、恵みと真理をもって私たちを輝きへと導かれるのです。神様が、み子イエス・キリストとして私たちと同じ苦悩を味っておられる、み子の十字架によって私たちの自己中心的な罪を許される、これほどの慰めはどこにあるでしょうか。これほどの力は他にあるでしょうか。神様はイエス・キリストによってすべてを一緒に引き受けるという仕方で存在され、私たちに慰めと力を与えられるのです。それが神様の愛の姿です。力ではなく、愛によって世を支配される神様です。

 クリスマス・イブが過ぎて光がなくなったように感じるのは、私たちの誤りです。たとえ街のイルミネーションはなくなっても、み子のお誕生により、光はより確かなものとなり、私たちは光の中にいるのです。エフェソ4:8はこう言います。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光になっています。光の子として歩みなさい。」

 今日、悔い改め、み名によって洗礼を受ける仲間がいます。キリストをご自分の救い主と信じて堅信式を受ける仲間がいます。キリストはすべての人の光としてこの世に来られ、私たちを光の中に生かしてくださいます。すでに洗礼や堅信式を受けた人も、それを求め準備をしている人も、まだキリストとの出会いを自覚的に経験していない人も、すべての人が救い主イエス・キリストの光の中にあるのです。

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待降節第4主日

2005年12月18日 北尾一郎(牧師)

救いの神は祝せられよ

ゼファニヤ3:14-17  フィリピ4:2-7  ルカ1:67-79

今年は2005年。日本がポツダム宣言を受諾して、15年にわたりアジア全域で行った戦争が終結したのは、60年前の1945年でした。当時私は中国東北部(旧満洲)の大連に住んでいました。8月15日をもって、在満日本人は、外国人となり、捨てられた民となりました。技術者などは、在留して働くことを命じられましたが、一般の人々は、日本政府が派遣する「引き揚げ船」が来て、救い出してくれるのをただひたすら待ちながら、食うや食わずで生き延びるほかありませんでした。思えば、1947年2月に、大連の港に来た「引き揚げ船」は、私を「救う」船であったのです。
 現在の世の中でも「強制連行」の悲劇が続いており、戦争はまだ終わっていないことを認識させています。聖書にも「強制連行」の事件が記されています。最大の事件は、「バビロン捕囚」です。紀元前6世紀初頭、国王をはじめ、有力な人々が数万人という規模でユダヤからバビロンの各地へ連行されました。彼らは口を開けば「我々の骨は枯れた。我々の望みは失せ、我々は滅びる」と言っていました。
 ゼファニヤはそのような時代に活動した預言者の一人です。彼はこう預言しました-「娘シオンよ、喜び叫べ。…主は…お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主(ヤハウェ)はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。その日、人々はエルサレムに向かって言う。『シオンよ、恐れるな。力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ、…愛によってお前を新たにされる』。
 「敵の国から救出される」ことも「敵が追い払われる」ことも、確かに「救い」でありますが、「救い」の本当の内容は、「神が共におられる」というメッセージです。

洗礼者ヨハネの父であったザカリアの「預言」(ルカ1:68-79) は、「祝せられよ、イスラエルの神なる主は」という文で始まるので,「ベネディクトゥス」(Benedictus,Blessed)と呼ばれています。意味は「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」ということですが、「祝する」という言葉の持つ特別の意味があるように思います。
 「救い」は「祝われる」ものであります。神は神の民を「訪れ、解放し、僕ダビデの家から救いの角(キリスト)を起こされた」のです。実に、この「救いを祝う」ことは、自分たちの自由と解放を祝うだけではなく、まさに解放者である「神を祝う」ことなのです。ここに、キリスト教信仰の真髄があります。
 洗礼者ヨハネが告知した「罪の赦しによる救い」は、「我らの神の憐れみの心による」のです。「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」のです。

「待降節」はこのように、「神さまが訪問してくださる」ことを、私たちの心に刻む時です。「神が私たちのただ中におられる」ということこそ「福音」であります。使徒パウロも次のように勧めています-「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4:5-7)。

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待降節第3主日

2005年12月11日 小林恵理香(信徒)

心の大掃除

イザヤ61:1-4  1テサロニケ5:16-24  ヨハネ1:19-28

大掃除の意味
 すす払いという行事がある。新年の安泰と五穀豊穣を祈って、年神さま(農耕の神)をお迎えするために、家中を掃き浄める、あらたまった行事だったそうだ。それが今の大掃除になったという。教会でも先日、教会暦の新年を迎えるに当たり、大掃除を行った。普段からきれいに掃除されている教会だが、大掃除として「気合を入れて」磨いてみると、案外汚れていることに気づかされた。こうして、さらにきれいになった教会で私たちは教会の新年である、待降節を迎えた。
 待降節の典礼色は紫だ。紫は「悔い改め」を表す。この期間に今度は「心の大掃除」をしたいと思う。心の大掃除は、掃除をすることで汚れに気づくという点で、家の大掃除と似ている。しかし、最終目的が「きれいにするため」ではなく、「きれいにされる必要があることに気づくため」という点で異なる。私たちは、自分の心を見つめなおすことで、自分の心は自分が普段考えているよりもずっと汚れに満ちていることに気づかされる。

主の道をまっすぐにする
 私たちはいろいろなものに心を奪われて、大切なものに目を向けていないことがある。「臭い物に蓋をする」かのように、心の汚れに蓋をして良しとしてしまっていたりする。このような状態では、イエス様を心の中にすっとお迎えできない。「主の道をまっすぐにせよ」という預言者イザヤ、また洗礼者ヨハネの言葉は、そのような私たちに向けられている言葉だ。
 この言葉は、「悔い改め」とセットで語られることが多いため、つい、(悔い改めて)自分の心をきれいにし、主をお迎えしなければならないのだ、という風に解釈してしまいがちである。しかし、私たちがしなければならないのは、自分で自分の心をきれいにすることではない。自分がきれいにされなければならない人間であると気づくことなのだ。

荒れ野にこそ
 洗礼者ヨハネは「荒れ野」で叫んでいた。「荒れ野」というのは、夜は冷え、昼は激しい暑さで、水に恵まれない過酷な地である。また、人間の罪によって神の祝福が失われた世界のシンボルでもあり、罪に汚れ、神の祝福を失った人間の心のことでもある。
 今日朗読されたイザヤ書は、第3イザヤと呼ばれる箇所で、バビロン捕囚から帰ってきた民を相手に語られた言葉である。
 バビロンで捕囚になっていた人々にとって、故国エルサレムに帰ることこそ悲願であったろうと思う。しかし、彼らがやっと帰れた故郷で直前したのは、厳しい現実だった。50年ぶりのイスラエルは、すっかり変わり果てていた。かつて自分たちが住んでいた家、かつて自分たちが礼拝していた神殿が以前の姿を留めていないほど荒廃しきっていたのだ。バビロンに連れて行かれた者と、エルサレムに残った者との間に争いもあったようである。神殿を再建しようと試みたが、周りの民族からの妨害もあり、作業も中断してしまう。イスラエルでは何か深い悲しみの出来事が起こると、灰を頭からかぶる習慣があったそうだ。人々は断食をし、粗末な服を着て、広場に行き、灰を頭からかぶった。もはや希望も明るい未来もない。彼らにとって、目の前にあったのは、「荒れ野」以外の何物でもなかっただろう。
 第3イザヤはそのような人々に「良い知らせ」を伝えるために遣わされた。救い主が必要なのは、「荒れ野」の中で苦しんでいる彼らであり、私たちなのだ。

あなたがたが耳にしたとき
 それにしても、厳しく、やるせない現実に直面するとき、「良い知らせ」に希望を見出すことができるだろうか。しかも、イザヤは、悲しみの灰を喜びの栄光の冠に、暗い心を賛美に代えると言うのだ。「ああ、そうですか。」と素直に受け入れられる内容だとはとても思えない。
 このイザヤ書の箇所は、イエス様が故郷ナザレの会堂で朗読された箇所でもある。ルカ福音書によると、イエスはそのとき「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話され、人々はイエスがヨセフの子であるという現実に気をとられ、イエスの言葉を素直に受け入れることができなかった、そうである。
 私たちも、神の約束により頼むのではなく、目に見える現実に心を奪われ、嘆きを希望に変える力を持った方がおられることを忘れてはいないだろうか。希望の根拠を神に置くのではなく、「荒れ野」そのものに求めて、諦めのため息をついていないだろうか。
 現実ばかりに向いている目をもう一度神からの希望に向けること、思い込みから開放されて神の約束に素直に耳を傾けること、これこそが待降節に求められている「悔い改め」であり、「主の道をまっすぐに」することなのだ。クリスマスに私たちのもとに来られる方は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語ることができる方なのである。

正義の樫の木に
 イザヤが私たちに伝えるのは、嘆きが希望に変えられることだけではない。私たちが主を証する「正義の樫の木」と呼ばれるようになるとも言っている。正義とはキリストのことである。洗礼者ヨハネが「荒れ野で叫ぶ声」となり、やがて来られる方を証したように、私たちもまたイエス様を伝える「正義の樫の木」になるのだ。私たちが、クリスマスにお生まれになる方によって「荒れ野」から開放されていることを、全身で表す「正義の樫の木に」。
 キリストを伝えるのに、能力や資格は必要ない。洗礼者ヨハネは、自分がメシアでもエリアでもないと認め、イエスの「履物のひもを解く資格もない」と言っている。「履物のひもを解く」のは奴隷の仕事であり、ヨハネは自分が奴隷以下だと言うのだ。このままで神の霊にとらえられ、主によって油を注がれればよいのだ。
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」これこそ、私たちが主を証する最高の方法ではないだろうか。「荒れ野」としか思えない現状の中で、今度は私たちが「良い知らせ」を伝えていきたい。

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