説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2005年11月 ***

待降節第1主日礼拝

2005年11月27日 池谷考史(神学生)

主よ、来てください

イザヤ63:15-64:7  1コリント1:3-9  マルコ11:1-11

低い者として
 今日、わたしたちに与えられた聖書の箇所では、エルサレム入城に際し、イエス様が子ろばに乗ってこられたと、記されています。ここで私たちは、イエス様が子ろばに乗ってこられたことに目を留めたいのです。
 普通、王や支配者が街の中に入ってくるとき、馬に乗ってくるのが当時の通例でした。けれど、イエス様はそれとは対照的に、なんと子ろばに乗って来られます。イエス様は、ご自分は王の身分でありながら、あたかも王でないかのような、庶民と同じ身分の者として来られたのです。
 それでは一方、エルサレムのユダヤ人たちは、救い主が来るという出来事をどういう目で見ていたでしょうか。彼らの間には昔から、いつの日か自分たちの中から救い主(メシア)が立てられ、救ってくださるという考え方がありました。ですから、ローマ帝国の支配に抑圧され、しかも大多数が経済的な貧しさの中にあったエルサレムの人々は、そのような状態からの解放を願い、救い主としての王の到来を今か今かと待ち望んでいました。

人々の救い主のイメージと実際の救い主
 ところがです。このように大変な期待を込めて救い主を迎えた彼らでしたが、実際のイエス様は彼らのイメージした救い主とはだいぶ隔たりがありました。
 彼らが期待した救い主は、政治的支配者として君臨しているローマ帝国を力でねじ伏せ、自分たちを解放してくれるような力強い王のような存在でありました。また、低くされている自分たちを引き上げてくれるような現実的な力を持った王のような存在でした。しかし、イエス様はそういった、いわゆる力によって支配をしようとされませんでした。むしろ、不当な権力に対して正義を、当時のユダヤ教の厳しい律法主義に対して隣人愛をもって支配しようとされたのです。その究極が、十字架にかかることでした。
 確かに、イエス様の実践した正義や愛というのは、響きのいい言葉です。しかしそれは、強大なローマ帝国の力の支配、経済的な貧困、ユダヤ教の根強い伝統という現実の前では、役に立たない無力なものでした。しかも、彼らにとって十字架刑と正義や愛とは全く結びつかないものでした。人々にとって「救い主」とは、権力の前に簡単に屈服し、十字架にかけられ、あっけなく生涯を閉じてしまうような弱々しい存在ではありえなかったのです。このように、人々は救い主に対して誤解があったのでした。

わたしたちの現実
 翻って、わたしたちの現実に目を向けると、案外この状況に似通ったところがあるのではないでしょうか。当時のエルサレムと同じで、現在のわたしたちの社会は残念ながら、決して正義が貫ける社会、愛が支配する社会とは言い難いのです。むしろ目に付くのは、不正義、理不尽、憎しみ、争い…、周りを見渡せば、例を挙げるに事欠かないほどです。わたしたちはその中で、正義や平和、愛や本当の安らぎをなんとか探し当てようとします。そして、そういったものにいったん触れたならば、ずっと触れていたい、そのような中で生きていたいと、しがみつこうとするのであります。たとえ、不正義に加担している人でも、人を憎んでいる人でも、争いの当事者であっても、実は、その人も本当は、正義の中で生きたい、愛されて生きたい、そう心の奥底では叫んでいるのではないでしょうか。そうです、彼らにとっても正義や愛はやはり必要なものですし、わたしたちが生きていく上で、無くてはならないものなのです。と同時に、それらは神の御心の中心であり、神がわたしたちの世界の中に打ちたてようとしているものでもあるのです。
 誰もが正しさや愛の中に生きたいと望んでいるにもかかわらず、目の前の現実が圧倒的に大きすぎるために、そしてそれに対してあまりに自分が無力であるために、それが叶わないのです。現代のわたしたちの世界は、誰もが正義や愛に欠乏した境遇にある、そういう時代なのではないでしょうか。

クリスマスの希望
 人間の力では如何ともしがたいこの現実を打ち破るべく、イエス様がこの世に来られました。ともすればわたしたちは、ちょうどエルサレムの人々が現実的な力を持った救い主を求めたように、世直しを期待したくなるのですが、イエス様はそういう方ではないのです。イエス様のやり方は、現実の社会をひっくり返すような仕方ではなく、その現実が神というもっと大きなものに支配されているということを身をもって示そうとしたのでした。それは、わたしたちが正義や隣人愛を求めて生きる生き方が決して虚しいままで終わらないということを、神様が保障してくださった出来事でもありました。そこに、救い主が来たことの希望があります。そしてそれがクリスマスの喜びでもあります。

派遣
 ところで、イエス様を乗せた子ろばはその後どうなったのでしょう。すぐに返すと書かれていますから、おそらく、エルサレムの街に入った後、持ち主に返されたことでしょう。この「返す」という言葉は実は「派遣する」という意味の言葉です。ここで大事なことはイエス様によって召され、返された(派遣された)ということではないでしょうか。本人の意思とは関係なく、イエス様の意志によって召しだされ、イエス様を乗せ、その後まイエス様の意志によってもとの場所に返されていく。しかも、当の子ろば自身は、イエス様に触れたからといって体が成長したとか価値が上がったとかいうことは一切なく、前と同じ子ろばのまま返されたのです。私たちはこの子ろばのようなものです。なぜなら、わたしたちも、今、神様の意思で教会に召され、神に触れて、そしてこのあとそれぞれ自分の場所に帰っていきます。いえ、派遣されていきます。そこは確かに、依然として神の支配からは程遠い世界かも知れません。そして、それに対してわたしたち自身、無力かもしれません。でも、イエス様が小さな子ろばに過ぎないわたしたちに目を留めてくださり、そして正義や愛を求めて生きる生き方が虚しいままで終わらないと保障してくださったのですから、私たちは勇気を得ます。だから、わたしたちは「主よ、来てください」と期待に胸膨らませて叫ぶことができるのです。クリスマスはわたしたちに・・・あらた・にこのような希望を与えてくれる出来事です。この一ヶ月間、クリスマスに希望を持って過ごしたいと思います。

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聖霊降臨後最終主日

2005年11月20日 北尾一郎(牧師)

永遠の祝福

エゼキエル34:11-16、23-24  1テサロニケ5:1-11  マタイ25:31-46

■最後の審判
 今日は、キリスト教会の「一年」の最後の日曜日です。「王であるキリストの日」という言い方もあります。「今日の福音書」(マタイ25:31-46)は、「栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」“人の子”を、私たちに指し示します。“人の子”とは、「人っ子=にんげん」という意味ではありません。それは、旧約聖書の中で最も新しい時代の文書に書かれている特別な言葉で、「神から永遠の王権を受ける“メシア・救い主”」(ゼカリヤ14:5-9、ダニエル7:)を意味しています。
 永遠の王の第一の任務は、その時、「最後の審判」を実施することです。ミケランジェロを初めとして、多くの画家がこの主題を表現してきました。「最後の審判」という言葉には、三つの意味があるのではないでしょうか。第一は、時間的な意味での終末における「最終の審判」です。第二は、「すべての国の民」がこの王の前に立つ、という点です。国によって微妙に違う“諸国家の法”を超えた、“普遍的な法”による審判という意味での「共通の審判」です。第三は、人間が行う相対的な審判を超えた、神による絶対的な審判という意味での「究極の審判」です。

■究極の正義
 私たちは正直なところ、このような「最後の審判」があることを信じているでしょうか。キリスト教に対する疑いの一つは、現実の世界に“正義”や“公正”が存在するとはとても思えないという点です。聖書の中にも、そのような疑いを持つ人々の言葉が書かれています。今日の福音書は、そのような質問に対する回答であります。すなわち、「最終の、共通の、究極の」審判がある、言い換えれば、究極の「正義」が存在する、というメッセージです。
 では、究極の「正義」とは何でしょうか。パレスチナでは、「羊」と「山羊」とは見分けがつかないという話を聞いたことがあります。専門家である「羊飼い」は、その群れを「より分ける」ことができるというのです。人間の世界では、誰が本当に正しい人であり、どのような行為が正義に相当するかを判断することは、きわめて困難です。しかし、究極の審判者には、それができるというのです。
 今日の第一の日課(エゼキエル34章)は、神は“羊飼い”であって、「イスラエルの牧者」であり、神御自身が、散らされた民を集めてくださる、という希望に満ちた説教です。特に16節は、「羊飼い」のイメージと、「神」のイメージを重ねています。

わたしは失われたものを尋ね求め、
追われたものを連れ戻し、
傷ついたものを包み、
弱ったものを強くする。
しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。
わたしは公平をもって彼らを養う。

■祝福された人たち
 「さあ、わたしの父に祝福された人たち」と、この王によって呼びかけられた人々の特長は、「愛」を実践しているのに、その意識がない、ということです。これは、とても重要な意味を持っています。「よい行い」によって救われる人はいない、ということです。その王は、「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と宣告されるのです。天地創造の時には、誰一人、良い行いをしてはいないわけで、しかも、天地創造の時に既に、救いが「用意されている」、というのです。それは、何もしていないのに、“プレゼント”を受け取るようなものです。

お前たちは、
わたしが飢えていたときに食べさせ、
のどが渇いていたときに飲ませ、
旅をしていたときに宿を貸し、
裸のときに着せ、
病気のときに見舞い、
牢にいたときに訪ねてくれたからだ。

■意識しないで
 しかも、「神に祝福された人たち」は、「意識しないで」、愛を実践しています。「正しい人たち」は王に答えます。

主よ、
いつわたしたちは、
あなたが飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、
のどが渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、
裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
いつ、病気をなさったり、
牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。

 愛とは、そのようなものでしょう。主イエスの教えの言葉を思い出します-「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。・・・隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」(マタイ 6:3-4)。

■救いにあずからせるように定められている
 神に祝福された人たち」は、この王のために何も「しなかった」と思い込んでいます。自分は、無知で、不完全で、罪深いという意識が、この人々を支配しています。いつの時代もキリスト者は、そのような者です。ですから使徒パウロは、今日の第二の日課(テサロニケの信徒への手紙1)に、こう書いています-「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を謹んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主はわたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(5:8-10)。

 このことは、キリストの福音を知る機会を得ないで、あるいは必要なオリエンテーションを受けられないまま、地上の生涯を終えて、神のみもとに召された方々の場合も同じであります。主は彼らのためにも死なれたのです。救いにあずからせるために。

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聖霊降臨後第26主日

2005年11月13日 小島愛光(信徒)

ともし火を灯して

ホセア11:1-9  1テサロニケ3:7-13  マタイ25:1-13

 教会暦では来週が聖霊降臨節の最後の主日になります。この2週の主日に亘って、ご一緒に「終末」に思いを向けて参りたいと思います。

 この1年を振り返りますと、世界中でさまざまな出来事が起こりました。各地で地震や台風が発生し大きな被害と大勢の犠牲者がでました。さらに争いやテロによる犠牲者が各地で後を絶ちません。毎年のように飢餓等によってたくさんの子どもたちや弱者の命が失われています。国と国、民族と民族、宗教と宗教、強者と弱者、今年もさまざまな悲しい痛ましい事故が絶えない年でした。まさに、終末に近づいている感を強くします。平和は和解はこの地上に何時訪れるのでしょうか。私たちは自分の痛みや苦しみや悲しみはよく知っています。その思いを他人の痛み、苦しみ、悲しみを思いやり、手をさしのべることができたら、この地上にも和解が、平和がもたらされるのではないでしょうか。しかし、人間同士では絶対に不可能なことも私たちは知っています。その完成はキリストによって神様と結ばれ神様と人間との和解を通して、初めて人間同士の和解が、平和が可能になるのではないでしょうか。

主の再臨の予告
 今日の使徒書の日課の後のところに、世の終わりの時、主が来られる時とは「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降ってこられます。するとキリストに結ばれて死んだ人たちが、先ず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして私たちはいつまでも主と共にいることになります」とテサロニケ第一4・16~17にパウロは記しています。イエス様がこの地上に救い主として来られたときには,密かに、しかもまずしい馬小屋で私たちと同じ人間としてこの世に来られました。そして、宣教と十字架と復活を通して福音のみわざを成しとげられ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と約束されて天に昇られました。その救い主であられるイエス・キリストが再びこの世に来られるときには、主の主として、王の王としてこの世に再臨されます。天のみ使いと、号令と、ラッパの響きと共に雲に乗ってこられます。私たちはその時を喜びの内に、待ち望んで生かされて行かなければなりません。

十人のおとめ
 天の御国はたとえて言えば「10人のおとめが、それぞれがともし火をもって、花婿を迎えに出て行く」ようなものだと言われます。イエス様の再臨を待ち望む姿勢について、10人のおとめのたとえを通して私たちに教えています。

 一つは、いつも変わらない信仰を持ち続けなさいと言うことです。ともし火は信仰を意味します。花婿であるイエス・キリストが望んでおられる花嫁、それは私たちの教会であり、私自身です。いつも変わらない信仰の上に、堅くたっていなければならないということです。どんなことがあっても、揺れ動くことのない信仰を持ち続けている人を望んでおられます。私たちはいつも主に感謝し、罪を自覚し、自分に与えられた使命を忠実に果たし、心から神様を愛し、自分と同じように隣人を愛する、ともし火を灯し続ける賢いおとめを望んでおられます。変わらない信仰をもち続けること。自己中心的な感情や肉的な思いではなく、信仰と希望と愛の内に生き続けることです。

 もう一つは油を準備する者になることです。油は聖霊を意味します。私達がイエス・キリストを信じると言っても聖霊の力を受けて、聖霊に満たされて行かなければ花嫁の準備をすることはできません。即ち、油を準備することは聖霊に与かると言うことです。油が絶えるとともし火は消え、光を失い、闇の世界になります。同様に私たちの中で聖霊のともし火が消えてしまうと、私たちの中に肉体的な思いや罪が芽生えることになります。私たちはいつも、キリストによって、神様と結ばれていなければなりません。ともし火が消えるとき、この世と妥協し、肉的なものに埋もれて行くのが私たちなのです。それは結果的に神様から離れる道を選んで行くことになります。油を用意するとは聖霊の力を神様から受けることです。聖霊に与かると言うことはいつも祈ることです。

目を醒ましていなさい-ともし火を灯して
 「だから目を醒ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」13節。花婿が真夜中に突然やってきます。油を準備していなかった愚かな5人の花嫁は花婿を迎えることができませんでした。花婿はなぜ真夜中に来られたのでしょうか。真夜中とは闇です。闇は今の世の中を意味します。そこは罪と悪に溢れています。主が来られるその日、その時は私たちにはわかりません。イエスさまは闇の時代だから"目を醒ましていなさい"とおっしゃいます。
 「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」42~44節「このことは盗人のように入ってくるのです」とも警告しておられます。LAOS第4号「神と人間」-聖書は救いのドラマ-の最後の箇所(64ページ)に終末の希望と救いについて、こう纏めています。「キリストを信じるものは喜びを持って終末のときを待ち望む存在なのです。終末への希望によって、現在の生活の中で神と人への誠実を貫こうとするのです。キリストの再臨と神の国の完成がいつ起こっても良いように備えて生きるのです」。イエスさまが聖書の預言どおり再び来られる日が近づいているのかもしれません。私たちはいつもともし火を灯し続けて、その日に備えて復活の希望を持って主のまなざしを受け止めて、祈りの内にご一緒に歩んでまいりたいと思います。アーメン

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