説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2005年10月 ***

宗教改革主日

2005年10月30日 北尾一郎(牧師)

大衆へのメッセージ

エレミア31:31-34  ローマ3:19-28  ヨハネ8:31-36

■「宗教改革」とは何か
 「宗教改革主日」の礼拝です。10月31日が「宗教改革記念日」なので、その直前の日曜日に、カトリック教会の中から「ルーテル教会」が生まれた歴史を振り返り、私たちが「ルーテル教会」に属していることには、どんな意味があるかを考えるのです。
 「宗教改革」は、16世紀の初期、ひとりのドイツ人修道士の魂の中で始まった運動です。キリストの十字架によって示された、神の限りない恵みを「心の底」で受け入れると、人間の魂はあらゆる束縛から自由にされ、神を喜ぶようになり、隣人を大切にするようになる、とその修道士は公に語り出しました。彼の主張は、要するに、イエス・キリストの弟子たちが書いた『新約聖書』の教えに帰ろう、という呼びかけでした。「改革」は、「原点」に帰って、そこから再出発する、ということでしょう。

■ルターの宗教改革は普通の人々のため
 この「原点」には、いくつかの側面があります。その一つは「誰のための教会か」という問いに答えることです。かの修道士の名はマルティン・ルターです。彼は、深い信仰体験の中で、当時の教会が見失っていた「神からの福音」を再発見したわけですが、その内面にあたためていた考えを、彼はなぜ公に語り始めたのでしょうか。
 それは、彼が牧師を務めていた教区の「普通の人々」の心の中に、信仰理解に関する重大な混乱があることに、深く心を痛めたからでした。彼の運動は、目の前にいる「普通の人々」の魂をその危機から救わなければならない、という燃えるような思いから始まったのです。教会は「普通の人々」のための教会であると信じていたのです。
 ルターの大きな仕事のいくつかを思い起こすだけで、そのことは明らかになります。まず、今でも聖書に次ぐベストセラーと言われる『小教理問答』の著作に至るまでの多くのパンフレット、次に、「普通の人々」に理解できるドイツ語訳の『聖書』、さらに、福音の内容を力強い言葉で歌う多くの「讃美歌」(聖歌隊ではなく会衆が歌うコラール)、また、「普通の人々」のために書いた『キリスト者の自由』をはじめとする著作、毎週何回も行われた「説教」、生活困窮者のための"共同募金"など。
 ルターが活動した時代、ヨーロッパは、「キリスト教世界」になっていましたが、印刷術が発明されたばかりで、識字率はきわめて低かったことはいうまでもありません。そのような現実の状況に対応するために、ルターは、「信徒の聖書」ともいわれた『小教理問答』を書いたわけです。「誰のための教会か」という問いに対する、かの集同士の答えは明らかであります。

■鑑真和尚の"宗教改革"は「大衆」(だいじゅ)のため
 ここで、ちょっと横道に逸れたいと思います。先日、たまたま「鑑真和尚」についてのテレビ番組を見ました。8世紀、鑑真は、日本から留学に来ていた仏教者たちから、日本の仏教の改革のために是非とも来日していただきたいとの懇請を受けます。揚州の大明寺で戒律を講じていた鑑真は、その要請に応え、中国・唐から渡航を試みますが、暴風や海賊の難のために5回も失敗し、その間に失明したにもかかわらず、11年後にやっと日本へ到着しました。鑑真は、数年の間に見事に日本の仏教を立て直し、「大僧都」に任じられます。しかし、彼の弟子が増えてくると、政府は納税者が減るのを防ごうとして、鑑真をその職から解任します。その時、鑑真は思いもかけぬ新しい方向にその働きを転じます。それは私立の寺である「唐招提寺」を建てることでした。そこで数百人の弟子たちが訓練され、全国に散って布教しました。
 最近、この寺の改築事業が行われ、創建当時に事情が明らかになりました。そこから出土した焼物に書かれている一つの言葉が注目されています。それは「大衆」という文字です(仏教語で「だいしゅ」と読みます)。当時の仏教の主流をなしていたのは、貴族出身の僧たちであったようです。しかし、鑑真は、貴族出身でない僧たち、すなわち「大衆」(だいしゅ、「普通の人々」)を隔てなく受け入れ尊重したというのです。この事実は、鑑真の目指した仏教が、「国のための仏教」ではなく、「民衆のための仏教」であったことを雄弁に物語っています。

■預言者エレミヤの宗教改革
 鑑真がその悟りを願った「大衆」は、現代用語でいう「マスコミュニケーション」の「マス」(大きな塊としての「たいしゅう」「庶民」)ではありません。「普通の人々」の「一人一人」を指しています。マスコミも、大衆を特定の層に分化します。しかし、「層」の中にも、それぞれ個性を持つ「一人一人」がいるのです。
 それは、旧約聖書時代の預言者エレミヤが言う「民」と同じではないかと思います。エレミヤは語っていますーー「わたしの律法を彼ら(イスラエルの家)の胸の中に授け、彼らの声にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も わたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(31:33,34)。
「すべて、小さい者も大きい者も、神を知る」ことが、ヤハウェなる神とイスラエルなる民とを当事者とする「新しい契約」の目的であります。そして、この「新約」は、実に十字架につけられたイエス・キリストにおいて実現しました。神はキリストの十字架の血の犠牲のゆえに、私たちの罪を赦してくださるのです。それが、教会で行われる「聖餐式」(ミサ)で与えられる「新約の血」の意味であります。

■ 「普通の人々」への福音、大衆へのメッセージ
 私たち人間は、「罪の奴隷」です。神の御子であるキリストが、この「奴隷」を解放してくださることによって、私たちは本当に自由となります。しかも、キリストは、十字架の上で殺されました。その血こそ、「奴隷」である私たちを解放するために、神が支払われた「身代金」なのです! ああ、何と価値ある恵み、何と確かな救い!
 この「恵み」は、一部の人間だけのものではありません。「小さい者(普通の人々)も、大きい者(支配者たち)も皆、(キリストによって実現された恵みの)神を知る」ことこそ、福音であります。このメッセージをすべての人々に、ことにも「普通の人々(ordinary people)に知らせることが、教会の職務であります。
 さて、今、「誰のための教会か」と問われるならば、あなたは何と答えられますか。私も「普通の人々」の一人でありますが、「普通の人々」とは、礼拝堂の中にいる私たちだけではありません。この町のすべての人々のことであり、世界のすべての人々のことであります。実に「教会」は、「普通の人々のための教会」であります。

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聖霊降臨後第23主日

2005年10月23日 北尾一郎(牧師)

完全主義者たちへ
- あなたを捕らえる永遠の愛 -

エレミア31:1-6  フィリピ3:12-16  マタイ22:1-14

 先週と先々週、私たちは「ぶどう園」の話を聞きました。それは、主イエスによってまさに開かれようとしている"新しい世界"・「天の国」を表す「絵」として語られたものでした。今日の福音書も、同じ目的で語られている劇的な「絵」です。その情景は、「婚宴」です。しかも、ある王が王子のために催した婚宴です。
 この「王」は神さま、「王子」は御子イエス・キリストを表しています。そして、「婚宴」は"メシアの祝宴"で、神の救いの御計画が完成される時に開かれる究極の祝宴です。しかも、婚宴が開始される"その時"が、いよいよ来たというのです。
 ところで「婚宴」に既に「招かれている人々」がいました。彼らは"エリート"です。"完全主義者"です。この「たとえ」は、エリートたちのこのような傾向によって、急展開します。エリートたちは、自分は婚宴に招かれるほど完全な人間だと自覚していました。そのうちに、「招かれている」ことが特別の恵みなのだということを忘れて、「完全」になるための「義務」を果たすことを優先させるようになっていました。彼らの「義務」とは、畑に、商売に出かけることであり、また、神からの使者を迫害することが神に対する義務だと思い込むことでした。何という倒錯でしょう。哀しいことに、「招かれた人々」は、招きを断ったのです。

 「招かれる」ことは、「特別の恵み」です。今、そのことを明らかに示すような事件が起きます。王は"エリート"を諦め、無差別に人々を招き、お仕着せとしての礼服を着せて、婚宴に参加させたというのです。"お仕着せ"は、「自前」ではなく「恵み」を示しています。「自前」の服で婚宴に来た人は、追い出されました。このようにして、「婚宴」に参加する条件は、「恵み」を受けいれる、というただ一点だけだということが明確に宣言されました。そして、この「たとえ」を話しておられる主イエスは、「恵み」を実体化するために二日後に十字架の時を迎えます。

 現在の世界、特に日本で、私たちは"生存競争"に明け暮れています。エリート志向の社会で力を揮っているのが、「完全主義」(パーフェクショニズム)であります。これは、一種の病気です。人間の本当の価値を正しく見ることができないばかりか、一面的な見方で人間に不適切なレッテルを貼ります。その結果、魂は不安と絶望に病み、心の中には「うぬぼれ」と「さげすみ」の虫が蠢くことになります。

 主イエスの時代の"エリート"たちは、「ファリサイ派の人々」でした。その中でも若手のトップに立っていたのはパウロでした。彼は、キリスト教会の迫害者でしたが、復活のキリストとの出会いを通して回心し、伝道者となったことはよく知られています。晩年のパウロの手紙(フィリピ3:12-16)には、完全主義者であった彼が、全く違った生き方をするようになったことが、印象深く書かれています。――「わたしは、既にそれ(=死者の中からの復活)を得たというわけではなく、既に完全なものとなっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」。実に、エレミヤが言うように、神は、あなたを、「とこしえの愛をもって愛し」ておられるのです(31:3)。

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聖霊降臨後第21主日

2005年10月9日 北尾一郎(牧師)

高く超えた道
- 福音を絵にすれば -

イザヤ55:6-9  フィリピ1:12-30  マタイ21:1-16

 「旧約聖書の世界」を一枚の絵にすれば、エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民衆が「葦の海を渉る」場面ではないでしょうか。「キリストの世界」を一枚の絵にすれば、それは三本の十字架の真ん中に釘づけられたキリストの姿を描くことになるでしょう。それでは、「キリストの教え」を一枚の絵にすれば、どんなドラマを描けばいいのでしょうか。その答えが、今日の福音書の箇所ではないかと思います。

 主イエスは「天の国は次のようにたとえられる」と言って「ぶどう園の労働者」のたとえを語られました。しかし、このたとえは、「ぶどう園の労働者」のたとえであるよりも、「ある家の主人」のたとえであります。しかも、この主人の行動はまことに不可解です。まさに"ヘンな雇用者"です。普通の主人なら、その日に必要な労働者の人数を見当をつけて、早朝一回だけ必要人数を雇うでしょう。ところが、この主人は、3時間ごとに何回も広場に出て行って、仕事にあぶれた労働者を雇うのです。最初は「夜明け」――ぶどうの収穫時期は秋分の日のころと考えれば、昼間は12時間で午前6時~午後6時――9時、12時、3時、そして5時でした。3時間間隔なら、最後は6時ですが、6時には一日が終わって、賃金支払の時になってしまいます。
 ところで、「午後5時」は、新約時代の「第11刻」で、その日の日没を間近に控えた"終わりの時"を示唆しています。その「終わり」とは、何よりも主イエスが地上の御生涯を将に終えようとする最後の週に入る時を意味しています。同時にそれは、神の救いの御計画が、将に実現しようとしている「終わりの時」を意味しています。またそれは、今まで神と共に働く機会がなかった人々に与えられる"滑りこみセーフ"の時であり、与えられた「最後のチャンス」を意味します――そして、使徒パウロが獄中にいた時も、そのような「時」でした。私たちは、まさにそのような時を過ごしているのです。
 それだからでしょうか。預言者イザヤは言いました――「主を尋ね求めよ、見いだし得るときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」。
 このヘンな雇用者は、イザヤの路線を踏襲しています。ところが、その救いの路線に不満を覚える人々がいます。「何もかも捨てて主イエスに従った」(19:27)ペトロたち12弟子もそうでした。多くの熱心なキリスト者もそうなのではないでしょうか。そして、「目がよこしまになる(嫉妬深くなる)」のです。確かに"契約違反"ではないにしても、それにしても不公平だ、と。
 それに対して、この主人は答えています――賃金体系を逆転させているわけではない、セーフティネットを作ったのでもない、私はあらゆる制度・規制から自由なのだ、と。そうです、この主人は、すべての人に「同じように支払ってやりたい」のであり、「自分のものを自分のしたいようにして」いるだけなのです。それは、彼の「意思」、彼の「思い」です。イザヤが言うように、神の道は私たちの道を、神の思いは私たちの思いを、高く超えています。この「神の思い」が、最後に来た私たちを救うのです。

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聖霊降臨後第20主日

2005年10月2日 池谷考史(神学生)

赦しの輪

創世記50:15-21  ローマ14:1-18  マタイ18:21-35

■赦しが必要
 今朝、私たちに与えられた聖書の箇所は、「仲間を赦さない家来」のたとえと見出しが付けられています。弟子、ペトロがイエス様にこう尋ねます。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。この問いの背景には、直前の話が深く関わっています。それは、兄弟が罪を犯したならば二人だけのところで忠告しなさい、聞き入れなければほかに一人か二人、一緒に連れてきなさい、とのイエス様の言葉です。イエス様は、兄弟の犯した罪を糾弾するのではなく、あくまで忠告しなさいと教えておられるのです。忠告するためにはその人を憎んでいてはできません。どうしても根底には赦すことが必要となるでしょう。

■赦せないわたしたち
 ところで、人間は赦されてもすぐに、また次の罪を犯すのが常です。ペトロは、何度も罪を犯す人を毎回毎回赦すことの虚しさを想像して、どこかに妥協点を設けなければ、との思いが無意識のうちに頭をもたげたのでしょう。それが七回だったのです。
 七とは、聖書に良く出てくる数字ですが、旧約の昔から完全を意味する数字です。例えば、天地創造は七日で完成しました。また、七は数が多いことも意味します。ですから、ペトロが七回と言ったのは七回赦せばもう自分の責任は完全に果たした、そういう意味を含んでのことだったのでしょう。ペトロは他人を赦すことが大切であることは知っていました。けれども、赦しには、ここまでで良いというような限りがあると思っていたのです。そこに、ペトロの持つ限界がありましたし、言葉を換えれば私たち人間の罪が潜んでいるのです。その限界をイエス様は打ち砕き、こう答えます。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。これはつまり、回数を設けずに何回でも赦しなさいということです。ここにこそ、私たち人間の「常識的な正しさ」を越えた神の正しさがあります。
 けれども、何回でも、と言われてもわたしたちは正直困ってしまいます。考えてみればすぐに分かることですが、たとえ一回であっても、わたしたちはなかなか他人を赦せないのです。このたとえの中の「仲間を赦さない家来」に自らをあてはめてみればそのことが実感できるのではないでしょうか。一万タラントンという巨額な負債が免除され、この上ない喜びを感じている私が、価値としては年収の三分の一程度に相当する百デナリの負債のある仲間に対し、赦しの喜びを分け与える事ができずに借りたものは返すのが当然とばかりに厳しく取り立ててしまうのです。欠点のある自分が赦されていても、そのことをつい忘れ、他人の欠点にはなかなか寛容になれないのです。

■最も大きな罪
 ところで、大義名分が立てば、相手の過ちを徹底的に糾弾するその裏には、自分はこの人とは違うのだ、正しい者なのだという驕りが必ずあるのです。自分が正しいという驕りは、他人に対する裁きに直結します。では、そもそも裁く権威は誰にあるのでしょう。聖書に聴きましょう。創世記50:19には、「わたしが神に代わることができましょうか」とありますし、ローマ14:10には「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」とあり、神が裁きの主であることが説かれています。そして、今日の福音書のたとえ話の結びには「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさる」とあります。つまり、ちょうど王が悪い家来を牢屋に入れる権威を持つように、神も裁きの権威を持っておられるというのです。そうです、裁きの権威は人間にではなく、神にのみあるのです。それが旧約の昔から変わることなく証しされる聖書の教えです。ですから、他人を裁くことは、まさに自分が神に取って代わろうとすることに他なりません。自分こそが正しい人間だと思うことが実は、最も大きな罪なのです。

■赦すことは憐れむ(スプランクニゾマイ)こと
 その、傲慢で、頑ななほどに他人に対して不寛容で、罪深い私たち、言ってみれば負債だらけの私たちをイエス様は十字架の苦しみによって、借金を帳消しにしてくださいました。私たちを無条件で赦してくださったのです。罪という負債にまみれ、そこから逃れようとしても、どうしても逃れられないこの私であっても、そのままで尊いのだ、ということを身をもって示してくださいました。それで、隣人の過ちをわたしたちは赦すことができるのです。そしてまた、わたしたちについていえば、誰かから赦された経験がなければ、他人を赦すことはできないのです。赦すとは、ただ黙って罪を傍観し、受け入れることではありません。そうではなく、赦すとは、罪を犯さないではいられないその人を「はらわたの突き上げられるほどに憐れむ(スプランクニゾマイ)」ことです。福音書18:27で「主君が憐れに思って」の憐れむという言葉は「はらわたから出る衝動的な熱情」です。まさに、体内の奥深くからこみ上げ、突き上げてくるような抑えがたい愛の衝動が憐れみです。

■赦しの輪
 わたしたちにはもう一つ聖書に聴くべきことがあります。それは、裁きの権威を神に委ねるということです。わたしたちはキリストではありません。他人を赦そうと思っても赦すことができません。しばしばそのことがもどかしいのです。だからこそ、裁きの権威をキリストに委ねることが私たちに最も必要なことなのです。委ねることで、わたしたちは変わることができます。いままでどうしても赦せなかったのに赦せるようになるのです。自分では成し得なかった事が実現するのです。一人の赦しは、始めは小さなからしだねに過ぎないのかもしれません。マタイ福音書13章では天の国をからしだねになぞらえてこういいます。「人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」。ちょうどそのように一人の小さな赦しが広がり、わたしたちの中に普く赦しの輪が広がっていくのです。理想論でしょうか?確かに、私たちの力でやりとげようとすれば現実味のない理想論に過ぎません。しかし、大切なのは理想として切り捨てるのではなく、キリストにより頼んで歩んでそれに向かって歩んでいくことです。もしわたしたちがキリストにより頼むならば、たとえ私たちにとっては現実味のない理想であっても、それに向かって希望を持ち続け歩むことができるのです。このことこそ聖書の語る福音です。希望を持って今週も過ごしたいと思います。

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