説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2005年9月 ***

聖霊降臨後第19主日

2005年9月25日 北尾一郎(牧師)

公同の教会を信じる

エゼキエル33:7-9  ローマ12:19-13:10  マタイ18:15-20

 今日の礼拝で朗読されたマタイ福音書18章は、「教会」について教えています。ところで、「教会」は、主イエスが十字架上での死から復活されたあと、十二弟子を中核として誕生した「信徒の集団」です。ですから、教会は「復活のキリスト」 によって導かれていました。そのことは、18章20節によってはっきり分かります。主イエスは、こう言われるからです-「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。
 そのような「場」は、特定の都市や建物に限られてはいません。復活のキリストは、全世界どこででも、二、三人がキリストの御名によって行われる礼拝に集まる「ところ」には、そこに「もう一人の方」が居てくださる、というのです。

 なぜ「もう一人の方」の存在が必要なのでしょうか。旧約聖書(申命記19:15)に「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」という基本原則が書かれています。それは、罪を犯した「兄弟」に忠告する場合にも、第一段階は、二人だけのところで話をする、ことです。しかし、その兄弟が聞き入れなければ、ほかに一人か二人を一緒に連れていくように、という訳です。そのことによって、当事者である自分を含めると、証人が二人か三人になるからです。これは、すべてのことが客観的に確立されるためです。これを「公性」というならば、二人または三人によって「教会」が成立するという復活のキリストの教えは、教会の「公性」を意味していると考えることができます。

 別の言葉で言えば、「公同性」です。ニケア信条も使徒信条も、「公同の教会」という表現で、教会の性格を語っています。「公同の」はラテン語で「カトリカ」です。それは、「普遍性」、英語で言えばuniversalityという意味です。キリスト教信仰は、自分一人で何かを思い込んでいる、といったものではありません。それは、自分のほかに一人か二人がいる、という群れです。しかも、それだけではなく、目には見えなくでも、「もう一人の方」が復活者として共にいてくださる、という御約束に支えられて成り立つ「群れ」です。そのことは、世界大の教会にも当てはまります。(また、ローマ書12~13章にあるように、教会の公同的な秩序も、国家の普遍的な正義に基づく秩序も、究極的には「神の権威」に基づいているのです)。

 エゼキエル書33章に、「悪人への警告」について書かれているように、兄弟への忠告は、個人的な感情に基づくものではなく、神御自身の警告に基づいていなければなりません。そうすれば、地上の教会が行う判断は、天上の判断と通じるものになるでしょう。マタイ福音書18章18、19節に書かれている通りです。
 使徒信条は、「聖なる、公同の教会、聖徒の交わり(コミューニオン)…を信じます」と言います。この「聖徒の交わり」は、御子キリストの血によってきよめられた人々の群れとしての「地上の教会」のことでありますが、同時に「天上の教会」にも通じています。復活者キリストを主とする教会が、死の領域に呑み込まれることは決してないからです。実に、「公同の教会」は、地上を超越する世界(天)に通じているのです。あなたや私が、自分を委ねている「教会」は、そのような世界です。

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聖霊降臨後第18主日

2005年9月18日 岸本進介(信徒)

危険

旧約:エレミヤ15:15-21  使徒書:ローマ12:9-18  福音書:マタイ18:1-14

 本日の福音書テキストは3つの部分に分かれ、それぞれ小見出しがつけられています。3つの主題があるのではと最初は考えました。

1. 天の国でいちばん偉い者 誰かに頼らなければ何もできないような者が天の国では最も偉い
2. 罪への誘惑 罪へ誘惑する者を捨てる
3. 「迷い出た羊」のたとえ 99匹より迷った一匹を大事にする

 迷い出た羊のたとえは、昨年9月12日に説教をさせていただいた時のルカによる福音書15章1節以下と同じたとえです。

 天の国で偉い者と弟子がイエスに尋ねたのは、一部の弟子たちが主の変貌に立ち会ったからではないかと思いつきました。一般の社会では組織が存在し、その中でランクがあります。動物でもペッキング・オーダーという順位が存在します。弟子たちはそれを自然に思いついてしまったのではないかと想像しました。しかしイエスの弟子、この世での偉さではなく、天の国の偉さを尋ねたのはさすがだと思います。
 ここでは、単に存在が低い、というより、誰かに頼らなければ生きていけない存在、そして誰かに頼り切る状態をわかりやすくたとえると、小さな乳飲み子のような存在が適当と考えられる。頼り切る相手は、小さな子供ならその保護者、多くは母親でしょう。しかしこれはたとえです。父であり子であり聖霊である主に頼り切らなければ生きていけないような人が、主は最も大事にするとおっしゃっておられるのでしょう。

 羊は群れで生活する動物で、視力が非常に弱いのだそうです。他の動物を圧倒出来るような体でもなければ、強い牙などを持っているわけではない。そして、羊は視力が非常に弱いのだそうです。このため、群れから離れてしまい、鳴き声もとどかなくなると、群れに戻るのは不可能になってしまうそうです。
 周囲に気を遣う群れの仲間で生活していたものが、急に群れから離れてしまうと、元の群れに戻ろうと必死になるのでしょう。しかし、自分一人では元の群れに戻る能力を備えていない。だれかに頼らなければ元の群れには戻れない事になります。
 迷い出た羊が羊飼いにみつけられた時は、さぞかしほっとしたことでしょう。
羊の立場に立ったと考えると、迷っているときは、もうどうしていいかわからないほど困って混乱してしまうでしょう。もしここで誰かが助けてくれるようなら、その助けに頼り切ることでしょう。
 羊は群れで生活するのですが、これは私達の教会にもたとえられます。
迷い出た羊、私達の兄弟姉妹は、まだ教会に残っている99匹の私達にとっては、主が最も大事にするのと同じように、私達自身が大事にしなければならないのでしょう。
 迷い出た羊をつれもどすのは、大岡山教会ではたった一人の牧師だけではなく、私達教会に集う者に主が与えられた役割でしょう。
 大岡山教会、あるいはルーテル教会、あるいはプロテスタント教会は、教会の中で上下関係を作らない組織体です。私は今は99匹の群れの中に加えていただいていますが、いつ迷い出てしまうかわからない羊です。牧師を中心として、迷い出ないように、そして迷い出ても連れ戻すようにと教会生活を語っておられるのでしょう。

 一人で誰の助けも得ずに聖書を読むと、罪への誘惑の話はこれらの話と矛盾すると思われてしまいます。
 極端に言うと、天の国に入るには、罪を犯す部分を捨てればよい、ともとれます。

 一度はイエスに救いを拒絶されたカナンの女も、食卓から落ちるパンくずを子犬がいただく、と、イエスに頼り切る信仰ゆえに癒されました。
 それなのに、罪を犯す部分をあっさりと捨ててしまえばいいのでしょうか。まるで、99匹の羊がいるのだから、迷い出た(悪さをした)1匹は捨て置いてもいいとも聖書の文脈を考えなければ受け取ることができてしまいます。
 捨てなさいと言われているその捨てる対象は、自らの体の一部です。右手だけ、片目だけが誘惑するというのではなく、片手あるいは片目に危険がある、と考えると、生きて天の国に行くには、それ自身は独立した存在ではない体の一部を捨てることは理にかなっているようにも思えます。

 罪に誘惑するもの、この言葉をカトリックのスペイン語訳聖書ではPeligro(危険:ペリーグロ)と訳されています。罪への誘惑を危険と言い換えて考えるとどうでしょうか。危険に対処する方法は、その危険を避ける、という事がすぐ考えつく対処法の一つと思います。危険を捨てるという言い方は普通ではなく、違和感がありますが、危険を捨てると言っても危険を避けるとそれほどイメージが異ならないと思います。
 罪へ誘惑する危険を避けなさい、取り除きなさいと言っているのです。

 私の周りには、危険がたくさんあります。いつ躓いてもおかしくない、あるいは既に私は躓きかけているのかもしれません。しかし、主の御言葉は、その危険をできるだけ避け、危険だけを取り除くようにして教会生活を送りなさいと本日の福音書で語っているのでしょう。

 子供のように幼くなり、神を頼りきる信仰を持ち、主の言葉から離れて躓く危険を避けていれば、たとえ迷い出た羊になってしまっても、神さまはその私をお捜しくださる。そう固く信じます。

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聖霊降臨後第17主日

2005年9月11日 北尾一郎(牧師)

キリスト教会のマニフェスト

出エジプト6:2-8  ローマ12:1-6  マタイ16:13-20

1 「神のマニフェスト」
 このところ、「マニフェスト」という言葉が、日本全国に響きわたっています。「マニフェスト」とは、"政権公約"のことです。政党が選挙民に対して、政権を取った場合に、なにを、いつまでに、どのようにして実行するか、を明らかに示す宣言を、「マニフェスト」と言うわけです。

 考えて見ますと、聖書は最初から「マニフェスト」である、と言えます。それは「神のマニフェスト」です。今日の旧約聖書の日課・出エジプト記6章の箇所は、その典型的な例です。それは、紀元前2000年ごろ、「カナンの土地」(現在のパレスティナ)を与える、という「神の契約」でありました。契約の相手は、「アブラハム、イサク、ヤコブ」という三代のヘブライ人族長であります。ヘブライ人は当時、さすらいの「寄留者」でした。「自分の土地」を持たない一部族にすぎませんでした。その「寄留者」に対して、神は、「彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した」というのです。

 しかし、この「契約」が政治的現実になったのは、約400年後のことでした。エジプトに寄留していたヘブライ人は、人口が増えて、一民族になっていました。ところが彼らは、「エジプト人の奴隷となって」いました。時のエジプト王の圧政の下で、彼らは「うめき声」を上げていました。

その叫び声が、聖なる神の耳に届いた時、神は彼らの祖先に対して宣言された、あの「契約」を「思い起こされた」のでした。そして、神はその契約を実行するために、モーセという人物を起こし、そのモーセを通して宣言されますーー「わたしは主・ヤハウェである。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す」。その神の公約が実現されたとき、このヘブライ人は、「神の民イスラエル」という民族になったのです。
 この民族は、単なる一民族ではありませんでした。彼らは、「全人類の祝福」が実現されるための道具となる使命を担う民族でした。いわば「他者のための存在」でした。

2 「キリストのマニフェスト」
 「全人類の祝福」となるというその使命が、いよいよ実現される決定的な「時」がやってきました。主イエス・キリストの来臨です。今日の福音書は、そのことが改めて宣言された決定的瞬間を、報道しています。それは、ガリラヤの漁師たちを中核とする12人の集団の目の前にいる人物が、旧約聖書2000年の歴史の中で待望されてきた「メシア」(=キリスト)その方である、という「確認の瞬間」であります。それは、ペトロの信仰告白と、ペトロの正しい認識に対する主イエスの同意という形で実現しました。主イエスは、さらに、「教会」の設立を宣言されます。主イエスは、ペトロとペトロの信仰告白の上に、堅固な「教会」を建てる、と言われました。それは使徒的な伝統の上に、しかも"制度"であるよりも、キリストの福音に対する"信仰"を本質とする「霊的な共同体」(聖徒の交わり)であります。そして、「教会」は、この「地上」の問題の根本にある「罪」に下に束縛されている「人間を解放する」という働きを、そのミッション(務め)として与えられているのです。この働きによって、教会は、いわば「天の国の鍵」を授けられていることが明らかになります。これが、「キリストのマニフェスト」であり、「キリスト教会のマニフェスト」であります。

3 「キリスト教会のマニフェスト」
 キリスト教会は、「他者のための存在」です。それは、イスラエルという神の民が持っていた基本的性格と同様であります。また、「教会」は、私たちが使徒信条によって告白するように、「聖徒の交わり」であります。そして、「聖徒」とは、「信徒」のことです。つまり、ゴルゴタの十字架の上で流された御子キリストの血によって、罪を赦され、取りのぞかれたというメッセージを信頼をもって受け入れる人々のことです。もっと言えば、「教会」とは、「あなた」や「わたし」のことです。
 それで、使徒パウロは、今日の使徒書の中で、「そういうわけで、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と述べているのです。またパウロは勧めていますーー「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。

 そして、私たちは、「キリストの体」を構成する「部分」であり、「与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持って」おり、それを生かして用いるようにするべきである、と教えています。これも、キリスト教会のマニフェストの内容であります。

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聖霊降臨後第16主日

2005年9月4日 北尾一郎(牧師)

対立を克服するために
-「すべての民の祈りの家」を-

イザヤ56:1-8  ローマ11:25-36  マタイ15:21-28

1 戦乱のイラクの中で
 イラクの状況を知らせるテレビの報道の中に、珍しく希望を与えるニュースがありました。イスラム教シーア派の教職者の一人でハッサンという人の平和運動です。彼は、イスラム教内部の対立を克服しようという運動を展開しているのです。その運動を象徴する働きは、「献血キャンペーン」です。彼は語ります-「私たちの血が誰のために用いられるかは問題ではありません。シーア派の人のために使われても、スンニ派の人のために使われても、そのほかの人のために使われても・・・」。そして、彼は、キリスト教会に指導的な教職者を訪ね、握手を交わし、協力の約束を交わすのです。この運動は、すぐ大勢の人々に受け入れられることはありませんが、ハッサン先生は、粘り強く続けていこうとしておられます。

2 「すべての民の祈りの家」を
 私は、この報道に感銘を受けました。そして、今日の第一の日課を読みました。そして、私の目に次の聖句が飛び込んできました-「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ56:7)。この箇所は、バビロン捕囚という最も恐ろしい歴史的状況の中で、エルサレムへの帰還という希望が生まれた時代を背景にしています。預言者("第三イザヤ")は、このリハビリテーション(帰還・再定住)プロジェクトの基本的な性格を宣言しているのです。それまでは、律法(申命記23:2-7)によって、「異邦人」や「宦官」は、"ヤハウェ教団"(教会)に入ることができませんでした。しかし今や、民族を越え、肉体的な条件を越えた、開かれた教団が作られていくのだ、というのです。実に「すべての民の祈りの家」となるというのです。
 日本で、ニュー・ナショナリズムが台頭しようとしている今日、私たちはこのような普遍的な「ものの見方、考え方」を重要視していかなければなりません。

3 すべての人を救う神の秘められた御計画
 使徒パウロを最も悩ませた問題は、やはり、このイスラエルと異邦人との関係でした。ローマの信徒への手紙の中でも、各所に出ていますが、特に9~11章は、この主題のために割かれているほどです。今日の第二の日課は、この箇所の最後の部分です。パウロは、25節と26節前半において、この問題についての彼の結論を述べています。そして、神の御計画の奥深さにただ驚き、神を賛美しています。

4 神の御計画を実現する「十字架のキリスト」
今日の福音書で、典型的な異邦人であるカナンの女が、病気の娘の癒しを求めて主イエスの前に出て来ます。そして、叫び続けるのです-「主よ、わたしを憐れんでください」(エレイソン・メ・キリエ=礼拝式文のキリエ)。ひたむきな彼女の態度とその知恵深い言葉に、主イエスはいたく感動されます。この逸話には、初代のキリスト教会が、民族の壁を越えて世界へと出ていった歴史が反映しています。実に、主の十字架は、神と人間とを結び、民族と民族とを結ぶ力を持っています。
 こうして、私たちを救う秘められた神の御計画は、明らかにされているのです。

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