説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2005年2月 ***

変容主日

2005年2月6日 小勝奈保子(神学生)

聖なるものあらわる

 「主の変容日」は、イエスの姿が白く輝いた出来事を指して、神の栄光を表しています。そして雲の中から響き渡る神の声は、神ご自身の顕現であり、その言葉は、神の御心をあらわしています。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタイ17:8)

 この8節の言葉は、マタイ福音書の中では、他にも3章17節と12章18節に登場しています。3章17節は「イエスの洗礼」の時です。ヨハネから洗礼を受けたイエスが、水の中から上がると天が開け、神の霊が鳩のように降って、神の声が聞こえたとあります。そして12章8節は、

見よ、わたしが選んだ僕。わたしの心に適った愛する者、この僕にわたしの霊を授ける。(マタイ12:18)

と少し形が変わっていますが、預言者イザヤの語った42章の1節から4節にある言葉(「主の僕の召命」(イザヤ42:1~4))からの引用です。
 ですから、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」というこの啓示は、洗礼から十字架、復活までを貫き通して、神の御心はイエスによって示されることを意味しています。9節には、イエスが弟子たちに見たことの口止めをしていますが、その時に「死者の中から復活する」とあるように、神の栄光は復活と結びついています。
 さて、今日の日課は、物語として読めば、情景が目に浮かぶストーリーで、とても分かりやすいお話しです。しかし、この日課を通して、聖書は私たちに何を語りかけているかを考えながら読んでみますと、やや難しく思われる箇所でありました。
 イエスはペトロとヤコブとヨハネを連れて山に登りました。そこでイエスの顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。そして、イエスはモーセとエリヤと語り出したのです。
 この物語は、前提として旧約聖書の出エジプト記をその背景としています。モーセはシナイ山で神から十戒を授かりました。出エジプト記の34章には、モーセは2枚の掟の板を手に、シナイ山を下ってきましたが、その時、モーセの顔の肌が光を放っていたという記事があります(出34:29~35)。
 そして、ペトロはイエスに「仮小屋を建てましょう」と言いました。仮小屋は、もとのギリシャ語からも幕屋を指していると理解することができます。幕屋は神が臨在される聖なる場所です。そして、雲は神の臨在を指し示す、しるしとなっています。出エジプト記の中では、幕屋の入り口には、雲の柱が立ちました(出33:9~10)。そして雲が幕屋を離れると、イスラエルの人々もそこを離れ、旅へと出発したという記事もあります(出40:34~38)。
 そのように「光」「白い」「輝き」「雲」は「神の臨在」「神の栄光」を表しています。
 ペトロは、モーセとエリヤと語らうイエスに、口を挟んで言いました。

「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです、お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。」(マタイ17:4)

 このペトロの言葉の理解ですが、ある解釈では、人間の手が作った物の中に神の栄光を収めようとする弟子たちの愚かさを読み取るという見方があります。それによって、このペトロの言葉と対照的に、イエスによって示された神の栄光は、人間の手に留めておくことのできないものであることを、ここで伝えようとしているのだという解釈です。そういう読み方もできましょう。
 しかしながら、出エジプト記をその背景としていることを考えますと、神の臨在するところに、「幕屋を建てましょう」というペトロの言葉は、ごく自然な反応の言葉であったのだろうと私は思います。
 出エジプト記の中で、神はイスラエルの民に幕屋を建てることを命じています。出エジプト記25章8節には、

わたしのため聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。(出25:8)

とあります。したがって、神の声はペトロの言葉をいさめたというものでもなく、弟子たちは、神の声そのもの自体を恐れたのだと思います。では、神の声とは、弟子たちにとって、いったいどのような恐れであったのでしょう。
 それは、出エジプト記から、イスラエルの民にとって神に近づくこと、特に神の顔を見ることは、恐ろしいことでした。出エジプト記33章20節に「人はわたしを見て、なお生きていることはできない」(出33:20)とあるように、神の顔を見た者は死んでしまうと信じられていました。ですから、モーセが神から十戒を授かった時に、民はモーセに向かって次のように言いました。20章19節、

あなたがわたしたちに語ってください、わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないとわたしたちは死んでしまいます。(出20:19)

 そのように当時のイスラエルの民は、「聖なる方」に対して「おそれ」を抱いていました。
 私たちにとってもイエスの変容は「聖なる」出来事です。また、神の声を聞くことは、人間にとって「おそれ(恐れ、畏れ)」を覚える出来事です。しかし、今日の日本社会は、この「聖なる」「おそれ」が見失われている時代ではないかと、時に思われてくることがあります。
 ユダヤ人である弟子たちは、家の戸口の柱に記すほどモーセの十戒を覚えていました。

あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。(出20:3)

 ルターは小教理問答書の十戒の解説の中で、第一戒(出20:3)を指して、次のように説明しました。

あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
これはどんな意味ですか。
答―わたしたちは、なににもまして、神を恐れ、愛し、信頼すべきです。

 そして、続く第二戒から第十戒においても、この第一戒を基にしています。ですから、第四戒の「父と母を敬え」、第五戒の「殺してはならない」ということも、神を恐れ、愛するゆえであるからです。
 先ほど、「聖なる」「おそれ」が見失われている時代と申しました。
 例えば、あまり良い例ではないかもしれませんが、傲慢な人に向けて「神をも恐れまぬ者」という言い方もできましょう。
また、ある人たちは「神を恐れること」が、どんなことかよく分からないということがあるかもしれません。しかしながら、誰もが「人を侮ること」は、どんなことであるかを、よく知っています。
 人を小バカにすること、見下すこと、相手にしないこと、人を大切にせず、人を侮ることの、その根底には「神を侮る」肉の心があるのではないでしょうか。
 考えてみますと、私自身の内にも「神をも恐れまぬ者」の姿があり、人間は本当に弱い存在だとつくづく思います。
 また、親子にまつわる傷害事件が、後を絶ちません。特に子供が加害者である時に、親子関係はどうであったか、生育歴や生活環境の因果関係について、原因が追究されます。しかし、今ひとつすっきりしない。そこには闇が潜んでいるようです。
 「父と母を敬え」「殺してはならない」という戒めに示された、具体的倫理観の欠如の原因について、聖書は明らかに、それが「神を恐れ、愛せよ」という言葉に基づいていることを示しています。
 十戒もまた「死」と結びついています。出エジプト記21章15節と17節には、

自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。(出21:15)
自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。(出21:17)

とあるように、弟子たちにとって、神の声にあらわれた、神に対する「おそれ」は、畏敬の意味よりも死の恐怖がまさっていました。
 5節からは、神の声を聞いた弟子たちが、恐ろしさに震え上がった記事が書かれています。この6節と8節は、口語訳聖書をお読みいただいた方が、もとのギリシャ語聖書に忠実です。口語訳では、

弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。(17:6)

となっていますが、新共同訳では「プロソーポン」という単語の「顔」という訳が、落ちています。そして新共同訳では8節に「顔」という単語が出てきますが、これは「オフサルモス」という単語で、本当は「顔」ではなく「目」を意味する単語です。口語訳では、

彼らが目をあげると、イエスのほかにはだれも見えなかった。(17:8)

となります。ですから、ここで弟子たちは、顔を地に伏せて、目を上げたという動作をしました。
 神の顔を決して見ないように、弟子たちは顔を地面に伏せました。そして、イエスが彼らに手を触れて、言葉を掛けられたことによって、彼らは目を上げることができました。おそらく弟子たちは、顔を下に落としたまま、目を上げたのだと想像します。そして誰も見えなかったことを確認し、イエスに顔を向けたということなのでしょう。
 弟子たちの恐れは、神の声という「未知なる方」への恐れよりも、死の恐怖に直結した恐れでありました。
 そのような弟子たちに、

イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」(17:7)

この「起きなさい」という単語は、「エゲイロゥ」と言いますが、9節にある「復活する」という単語と同じものです。
 ですから、まさに、主イエスは、罪の死に倒れた弟子たちに歩み寄って、ここで「起きなさい」と手を触れられたのです。イエスによって起こされるということは、死からの復活という出来事を、指し示しています。そして、神の恵みとは、このように、一方的にイエス・キリストからくるのです。
 このイエスの手とイエスの言葉に、神の御心は示されているのです。

これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタイ17:8)

と神の声は言いました。
 神の声は、何と言いましたか。それは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」です。そして、イエスは弟子たちに何と言いましたか。それは「起きなさい。恐れることはない。」です。死の恐怖に打ち倒された弟子たちに、手を触れて助け起こす者、「起きなさい。恐れることはない。」と言葉を掛ける者、それが、主イエス・キリストであり、神の御心であります。
 モーセを通して与えられた神の愛、すなわち十戒は、十字架の死に至るイエス・キリストの赦しによって、律法を廃棄するものではなく、律法を完成するものとして、イエス・キリストにおいて、ただ一つ、十字架に架かられたキリストにおいて神の御心は示されているのです。神の愛は、イエス・キリストにおいて、余すところなく、包み隠されることなく、十字架のキリストにおいてあらわれております。
 「聖なる方」神ご自身は、弟子たちに直接、手を触れることはできません。しかしながら、主イエス・キリストによって示されたように、神の御言葉が肉体となって宿り、この地上において「人」として歩まれたことによって、イエスは弟子たちに、手を触れることができたのです。私たちもまた、弟子たちと同じく、父なる神を見ることはできません。しかし、神の御心は、キリストによって示されています。
 イエスご自身もまた、神がお遣わしになった「聖なる方」でありました。そして、イエスの姿が白く輝いた出来事は、その「聖なるもの」をあらわしています。それは主の変容として、隠されている姿が瞬間的にあらわれたものであり、キリストの受肉の神秘を神の側から語った出来事だというようなことかと思います。
次の水曜日、灰の水曜日から四旬節に入ります。キリストの復活は、十字架の死を経て、成し遂げられました。私たちは、その十字架を心に刻みます。わたしの罪のゆえに、十字架に架かられたキリストを覚えます。
それを前に、次の言葉を共に心に留めましょう。

夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗いところに輝く、ともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。(IIペトロ1:19)

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタイ17:8)

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